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掌編小説|殺し場の人

「母さん、僕、人を殺しました」
 朦朧とした意識の中、息子の声が遠くに聴こえる。卓上照明の頼りない灯りが、寝起きの視界に差し込む。開け放した窓から飛び込むのは、肌を撫でる風ではなく、燃えるような蝉の叫びだ。夏の朝はもう、涼しくなどない。
「冷房くらい入れなければ、死にますよ」
 と、人を殺したはずの息子、省也は、壁にかけたリモコンを手に取り、電源を入れた。じっとりと体にまとわりついた汗に、冷風がしみる。
 ちょっとの仮眠のつもりだったが、身を預けていた腕は痺れを超えて感覚がない。どうにかスマホを握ると、八時ごろに千葉さんから着信が入っていた。さっきじゃん。と思って時刻を見ると、もう十時だ。そっと画面を伏せた。
「その様子では、見てくれてなかったようですね」
 省也は少し残念そうに眉を下げてみせた。
「ふん、一人殺したからってなんだい。あたしゃ今年に入って、もう三人は殺してるよ」
 私の言葉に省也は、ははは、と虚ろに笑った。彼には悪いが、それどころではない。原稿の締め切りが迫っている。
「こっちも仕事だ。落ち着いたら、見てみる」
「仕事どころじゃあないんじゃないですか。本当はあなた、人一倍、気にする人だから」
 省也はなお、部屋に居座る。傍の本棚から一冊取り出すと、開きながら言った。
「子どもの頃、わかりませんでした。なんで母さんは、人が死ぬような話ばかり書くのか」
「それが、今ではわかったとでも言うのかい。恐ろしい息子だよ」
「母さんのインタビューを読んだことがあるのです。『経験がなければ、表現ができないなんて嘘。すべては想像、いや、妄想力。思い描く力さえあれば、人殺しにでも、何にでもなれる』と」
「なんだい、いちゃもんつける気か」
「でも、母さんは僕にたくさんの経験をもたらしてくれました。そのおかげで、僕は」
 省也が手にしているのは、私の処女作。呪縛から逃れるために、親を殺した少女が主人公だ。子の自由と親の愛を描いた。まだ省也が生まれる前の作品だ。結婚すらしていなかった。その表紙をおもむろに、ぱたんと閉じると、元あった棚にそっとしまう。
「僕には、見える。母さんに描けない景色が」
 スマホが震える。千葉さんからだろう。どうせ原稿の催促だ。わかっている。私は書く。書ける。思い描けない世界などない。
「母さん、あなたに僕は、見えていましたか」
「急になんだ。くだらない。仕事の邪魔するんじゃないよ」
 パソコンのスリープを解くと、文書作成画面ではなく、ネット記事が開かれていた。
『怪演! 荒木省也、連続殺人鬼を演じ話題。今イチオシの若手俳優』
 原稿に行き詰まったとき、怖いもの見たさに、つい見出しに触れたのだ。そのコメント欄の、たったひとつの書き込みだった。
『荒木省也の親、作家の荒木みやこらしい。息子は旬だが、親はもうオワコン』
 冗談じゃない。私はまだ書ける。こんなコタツ記事の隅の落書きに、震える女じゃない。愚息のほんの一瞬の煌めきに、脅かされるなど。ありえない。ありえない。ありえない。
 省也はわざとらしく咳払いし、視線を呼んだ。意地悪な笑みを、目下に浮かばせていた。僕はあなたを殺したりしません。冷たい瞳が、そう訴えかけていた。
「配信もありますから、時間があるときにでも見てください」
 鼓動が大きく脈打つ。どくんどくんと、奥底の意識が押し出されるように。同じ言葉が胸の内から、こめかみから、首の筋から、血のように身体中を巡るのがわかる。
 ふと、万年筆が目に飛び込んだ。学生だった省也が、初めてのバイト代で買ったという、私への誕生日プレゼントだった。覚えている。当時はもう、パソコンで原稿をあげていた。私はそれを馬鹿正直に伝えたのだ。
 使わないと言ったときの彼の顔。まるで内臓を雑巾搾りされたような痛みを、訴えてくるかのよう。そんな表情をする男を、初めて見たから、よく覚えていた。そう、あのときの万年筆だ。
「省也」
 部屋を出ていく省也の背中を、無我夢中で追ったことまでは覚えている。山奥で彼の死体が発見されたのは、死後一週間経ってのことだ。ここから県境をふたつも超えた山である。
 私はすっかり原稿を書き上げていて、あとは千葉さんが取りに来てくれるのを待つばかりであった。
 インターホンが鳴っている。
                   了

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