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我々は「情報を食っている」のか

(☆5月4日に「食のファッション化」の影響について追記しました)

はじめに

「このウイスキーは250年以上の歴史のあるスペインの小規模な家族経営で有名なボデガまで先々代の蒸留所長が自ら足を運んで買い付けた今では買えない希少な樽に、100%自家精麦し昔ながらの製法で蒸留した原酒を詰め、蒸留所内の倉庫で30年熟成させたもので、2010年に有名な海外のウイスキーコンテストで最高賞を受賞したものです。間違いなく美味しいので是非お試しください」

「これは勝浦で揚がった生マグロ、近海もので小さめですが味が濃く、酸味がさわやかで赤身で食べるととても美味いし、中トロも口の中で脂が品よくとろけてとても甘く、赤身から大トロに変化していくグラデーションが素晴らしいのでどうぞ赤身側から食べてください」

最近こういうプレゼンテーションを飲む前、食べる前に受けることが多くなった。こういう説明をすることがサービスの一つ、デフォルトになりつつある気もしているのだが、私ははっきり言ってあまり好きではない。なぜ好きではないのか書いていきます。

食べる前、飲む前のプレゼンテーションが嫌いな理由

かつてたまたま入ったそこそこ高級な焼肉屋で一品一品出てくるたびにこんな感じで長々と説明され、最初は我慢していたが私はどんどん機嫌が悪くなり、それに気づいた後輩が「あー美味しくいただいてますんで説明大丈夫ですー」と店員をあしらってくれたこともあった。

なぜ機嫌が悪くなるのか。

自分が注文したものを自分のタイミングでいただきたいのに店から長々とした説明を聞かされて、まるで犬がエサもらう前に飼い主に「おあずけ」されているみたいではないか。こちらは金払っている立場であってあなたにエサをおねだりするあなたの飼い犬ではない、という気持ちになるから、というのももちろんある。
(私は客と店/バーとは常に対等な関係にあるべきで「客の方がえらい」とは思っていませんので念のため)

だが一番大きな理由は、「美味いかどうかは私が決めるので黙っててもらえますか?」という一点に尽きる。

普段手に入れられないようないい材料を使っている。
料理人の経歴、経験がすごい。
有名なコンテストで受賞した。
モルトスターから麦芽を買うのではなく、蒸留所で週に7日、24時間手作業で100%フロアモルティングを行っている。
地元の麦と地元の水、地元のピートしか使わずにウイスキーを造っている。
ウォッシュバックが取扱いの容易なステンレスではなく乳酸菌などが住み着いている手入れが面倒な昔ながらのカラマツを使っている。
19世紀から家族経営を貫き創業当時からの製法にこだわっている。

「~だから美味い」、という時に使われる枕詞は様々ある。

だがその「~だから」っていう情報、食べる前、飲む前には要らなくないですか?
それって、「与えられた情報で印象操作され、右脳ではなく左脳で美味しく感じる」っていう流れではないですか?

まさにこういうやつ。

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情報を知っているか知らないかで味わいの印象が全く変わるというのはまさに「情報を食っている」ということだ。


あなたが美味いかどうかを決めるのではなく、私が決める

提供された料理を一口もそのまま味わわずに、客がいきなり卓上の調味料を掛けて食べ始めると作り手は悲しい気持ちになるだろう。それと同様に、これから口にするものと先入観なく真摯に向き合おう、と思っているのに味わう前に店やバーテンダーから情報という「調味料」をかけられたときの客の気持ちを想像してみていただきたい。

舞台に立つ主人公は客である私であり、私が美味いか不味いかを決める立場にいる。店/バーは舞台の提供者ではあるものの主人公ではなく、文字通りお膳立てする立場。

だから私が「どうしてこれはこんなに美味いのですか?」と質問してはじめて店やバーが「実はこれはこれこれこういう素性のものなのです、だから美味しいんですかね」と答えるのが本来あるべき流れのように思われる。客に聴かれてもいないのに「これこれこういうものなので、だから美味いんです」と先にお店の人やバーテンダーが言い、それを聞いた客が「ああなるほど」と追従するものではない、はずだ。だってそれはまさに「情報を食っている」状態、なのだから。

私は事前に過剰に情報をインプットされて他者からの印象操作を受けたくない。自分の感性で美味かったと感じて喜びたい。人に何か言われて美味いと感じるように誘導されたかも、と感じるとちょっと興ざめしてしまう。

小難しい言い方をすると「他者が情報を与える → 他人の言葉を左脳で知識として処理し、自分で官能評価をしたわけではないのに美味く感じる」という矢印の流れは正しくないと思う。

私は「~だから美味い」というときの「~だから」という前段は正直どうでもいい。正確に言うと「~だから」という情報そのものはありがたいけれど、それは自分が食べたり飲んだりしてから聞きたいと思っている。

私が「美味い」と感じる → どうしてこうなるんだ?というポジティブな驚きが生まれる → 自発的に情報を知りたくなる → 情報を得て私なりに納得する、という流れが私にとって重要なのだ。

私はただ単純に快楽を得たい。ウイスキー飲んでいるのも「旨いウイスキーを飲む」のが最終目的なのではなく自分の快楽を追い求める一つの手段。美味い食べ物を追い求めるのもそう。

そして情報はその快楽に近づく手段であって目的ではない。だから他人から与えられる情報そのものをありがたがる(=「情報を食う」)のは本末転倒のように思う

過去自分がとても美味しいと感じられたものがこういう出自だったから、その情報でまた自分にとって格別なものに近づけるかもしれない、というように情報は使われるものであって、誰かが「こういうものだから美味い」、と定義したものをありがたがるものではない。それは宗教だ。そしてその手の宗教の教義は大抵出来が悪いことが多い。

美味い、というのは矢印の終着点ではなく、出発点であるべきだ、と私は強く信じている。

「情報を食う」ようになった原因は食のファッション化の影響?

ツイッターにてヒントをいただき、なぜ「情報を食う」人たちが増えたのか(需要側)と飲食店からの過剰なプレゼンテーションが流行っているのか(供給側)を改めて考えてみたが、恐らく「食のファッション化」と連動しているのではないかという仮説に達した。

インスタに上げるためだけに食べ物、飲み物の写真を撮るだけ撮って実際には味わわない人たちのような、いわゆる「インスタ映え」な特別な一皿や一杯をSNSを通じて自己顕示する人たちが増えたから、なのではなかろうかと。そしてそういう人たちの影響で普通の人たちも口にするものの写真をどんどんSNSにアップするようになったからかと。

写真自体はスマホでお手軽に撮れ、きれいに加工もできるけれど、「うわーセレブー」、と思われるためには「これは~で、だから(これを口にしている私は)すごいんです」という文章が必要。

インスタ映えする特別な一皿や一杯をお手軽にスマホで写真撮ってインスタに上げ、その横に添える文章は自分で考えずにサービスマンに言われたお店の宣伝文句をそのまま書いている、という構図。

「あのxxxさん(著名人)も行きつけの予約のとれない店xxxに来てみました、おととい獲れたばかりでトゥールダルジャンでも使われているシャラン産の鴨をエトフェという方法で丁寧に処理したものを冷凍せず生のままフランスから空輸、シンプルにローストしていただきました!芳醇な脂の香りが最高です!」

みたいな投稿に写真が添えられているやつ、よく見ますよね。

でも文章の9割5分がサービスマンによるプレゼンテーションそのまんま、みたいなやつ。

バズったときに的外れな感想書いているとフォロアーにバカにされるかも、とりあえずお店から聞いた宣伝文句でみんなに自慢できそうなことをそのまま書いておけば間違いない、あるいはそもそも自分で語るべき言葉を持ち合わせていないっていうインスタグラマーと、インフルエンサーにSNSで紹介してもらってバズれば客増えて儲かるという店側の思惑が合致したから、こんなに「情報を食わす」店が多くなってしまったのでは、という仮説に達した。

店側からしてみれば、原価を上げずに客単価と客の回転上げるには正しい経営戦略、だと思う。
口にするものにうるさい人を満足させるには手間暇かかるし原価も高くなるし人件費もかかるが、「流される」人たちに催眠術掛けて満足させればコスパがいい。いい食べ物、飲み物を提供するためにコスト払うよりも「情報を食わせる」ほうがコスパよく儲かる。そしてそもそもそういう人たちの方が多い。

でもコロナによる自粛の後は、接客やインテリア、照明などでの「雰囲気補正」もできないしインスタ映えする盛り付けもできない。プレゼンテーションにも限界がある。例えばこんなツイート見ると、「ハレ感に乏しい」という点などまさに本質をついている。


コロナによってみんなが「洗脳」から覚めて本質に目を向け始め「食のファッション化」の流れが逆回転することになるのだろうなーと薄ぼんやりと思いながら、若干矛盾はありますが家で小瓶に入ったウイスキーを自分のグラスに注いで飲むよりもバーでちゃんとボトルを目の前にしてちゃんとしたグラスでウイスキーいただく方が美味しいなーと思うのでした。



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