水源の町、水上におけるリトリートで生きることと文明を考える

TKです。かねてより関心があり、以前にも「㈱森へ」さん(*1)主催で石垣島で参加した森林におけるリトリートプログラムについて、石垣島のつながりで知り合いになれたまさきさんの活動団体である「tomaru」(*2)さんが群馬県・水上において新しいプログラムを開始されるということで、参加してきました。

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プログラムの概要
今回のプログラムはガイド・主催者の方も含めて6名の少人数で開催されました(一泊二日)。構成はシンプルで、初日にガイドの方と水上の森に入り散策を行い、夜は焚火の元で対話。二日目は間伐等の林業を体験した後、森を一人一人が散策し、最後に再び対話を行いチェックアウトを行っていくものでした。テーマは森を知ることと、人を知ること。
森の知識や実際の作業がある点等、以前参加した石垣島におけるリトリートとは異なった趣があり、自分が感じたことを中心に以下で纏めてみます。勿論、一泊二日で深いところまで体験したわけではありませんが、色々な「ヒント」があった気がします。

身体を通じて森を感じること
今回のプログラムで特徴的だったのは、森の間伐等の林業を体験したことでした。ガイドの方(「飲水思源」のテーマのもとに、自然を継承してく活動をされている「森林塾青水」代表の北山さん(*3))の指導の元チェーンソーで木を切ったり(めちゃくちゃ怖い笑)、大量の切った丸太を二宮金次郎のように背負って森から押し出したり(めちゃくちゃ重い)。
これらの一つ一つの所作が、「森の身体感覚」のようなものを教えてくれたように感じました。例えば、立っているときは細く見えた木も、いざ伐採して持ち上げようとしてみると、ものすごくずっしりとした質感で重い。あるいは、木を切った断面を触ってみると、みずみずしい質感で木が濡れていて、確かに木が水を吸い上げていることがわかる。これらの感覚は手触りとして今でも身体に残っていて、一つ一つが森で起きた身体感覚として自分の中に沈殿していく気がします。そして、身体を通じて森とコミュニケーションを行っていく感覚。

思考のみで世界や物事を理解することには限界を感じていて、去年にはシステム思考であるU理論と身体性を組み合わせたSPT(Social Presencing Theatre)のワークに行ったり(*4)、クリスチャン・マスビアウの著書である「センスメイキング」(*5)等で身体感覚について少しずつ深めている。
森や生態系についてもっと知りたいと思った場合も、自分の場合は「座して感じる」アプローチよりも身体を通じた活動の方が素直に深められるのではないかと思い、ヒントを得た感覚でした。

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「生きる」こと
森の中を散策していると、自然と「食べられるもの」と「食べられないもの」を知ろうとして歩いている自分がいることに気がつきました。自分は仕事や日常生活に関して、割と思考が回ってしまうタイプですが、「食べられるもの」と「食べられないもの」を判断しようとしている時はかなり没頭できる。
このことについて夜の焚火での対話について話していると(ちなみに、その日の夜はペルセウス座流星群の活動が盛んなタイミングで、一面の星空に流れ星が次々と現れる素晴らしい環境でした)、ある方から「人間は何万年も食べるものを探しているから、それは原始的な本能だよね」というような趣旨のコメントをもらいました。この考えはすごく自分の中で納得感があって、当たり前だけど食べることや火を起こすこと、寝る環境を整えることは、「生きる」上で最も原始的な希求であり、生きている実感を最も感じられるはずである。

ここで頭によぎったのが、小笠原諸島を舞台としたドキュメンタリー映画である「プラネティスト」(*6)。映画自体は見ていないけど、監督である豊田さんの対談を先日動画で見ていた中で、「プラネティスト」 - つまり地球に生きる人という風に解釈している - たる上で100くらいの条件があって、その中の一つが「なんでも直/治せること」と言っていた。例えば、東南アジアのどこかの民族は、骨折をしても自分たちで治癒の方法を知っていて、自分たちで治せたりする。
この頭の片隅に残っていた「なんでも直/治せる」ということと、今回森で感じたことが、不思議なシンクロを起こしていました。共に、「生きる」ということを感じさせる概念や体験であるという意味で。今の文明はとにかく便利で、火を起こすことも食糧を手に入れることも容易であるけど、同時に生命力を育む機会が少なくなっているとも感じます(この問題意識が自分の活動の方針を形成する一つの要因であるわけですが)。森で「生きる」ことは原始的な感覚を取り戻す最も早い方法なのかもしれません。

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森に貢献するということ
感覚として最後に書いておきたいのは、貢献するということ。
上記した通り、今回のプログラムでは間伐を行い、成長が見込みにくい弱っている木を切ることで健康な木の生育環境を整え、森を育てるという作業(と理解している)の、極めてごくごく一部を体験しました。そして、切った木を背負って森から運び出す「仕事」をする。
本当に微々たることを短時間しかやっていませんが、心境として一瞬よぎったのが、少しでも何か「仕事」をすることで、森の為になっているという感覚。サステナビリティ関連の仕事をしていると、100万種の生物が人間活動によって絶滅の危機にさらされている等、とにかく人間活動によって自然をいかに破壊しているのかということを、これでもかというくらい知らされる。その破壊する一方の中において、一瞬でもその逆の「仕事」を行うことで、自然に対する後ろめたさが少しでも和らぐ感覚がありました。

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(リトリート関係ないけど)水源の町にダムがあるということ
水源が豊富にある水上には日本を代表するダムがたくさんあります。このダムで首都圏の水と電力と治水を支えています。その内の「矢木沢」「奈良俣」「相俣」ダムにリトリート後に足を伸ばしました。
矢木沢ダムは、細い一本道をひたすら山奥に車で走ると突如現れる巨大建造物で、不思議な静謐さの中に、ある種暴力的な規模の建造物がある極めて特殊な空間でした。奈良俣ダムは、「ここは人類が滅亡した後に自然だけが生き残ったのではないか!?」と思わせる不思議な空気感を思わせるダムでした。
これらのダムでは、人間が築く「文明」というものを強く感じていました。巨大ダムのような建造物は、突如自然の中に出現させられ、自然との共生を図っているようですが、実際は環境負荷も大きいと聞きます。地球のPlanetary Boundary(*8)が限界にきている中で、今後の文明はより自然と共生した優しいものである必要があります。それを実現させる為には、ハードなインフラの設計は勿論のこと、森で感じたような感覚を多くの人が持つことが大事だよなあ、とリトリート後のダムでぼんやりと考えていました。

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1. 森のリトリート
2. tomaruさんFacebook
3. 森林塾青水
4. 身体感覚を通じてシステム変容に迫る 〜U理論と身体知性を組み合わせたSPTとは?〜
5. センスメイキング
6. プラネティスト
7. New Nature Economy Report Ⅱ
8. 人間活動によって与えた環境負荷が閾値を超えることで、元の自然には戻れなくなる臨界点

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