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若い時は「永遠の時間」を遊び、40代からは「死から逆算」して人生を作り上げる

将来のためにきちんと計画を立てる。
自分がどうなりたいのかイメージを定める。
40歳台になってようやくできるようになってきた。

決めるのが怖い青年期

今思うと、20歳や30歳の頃に「自分はこうなりたい!これになる!」と決意する勇気なんてなかった。
若い時は、可能性が無限にある。
可能性がありすぎるから、具体的な目標を立てることは、他の可能性を捨てることを意味する。
ひとつに絞ることなんてとてもできなかった。

シューマッハや朝青龍にはなれないが、ワンチャンは信じて遊ぶ

「どんなに努力しても、僕はミハエル・シューマッハや朝青龍にはなれない。」
20代だった頃の僕でもこのぐらいの想像力はあった。

その一方で、何か今の現実よりはマシな未来を信じていたのは確かだった。
「まだワンチャンあるよ、まだ決めるのは早いよ」と。

収入を伸ばすためのキャリア形成や結婚、資本蓄積は先延ばしにして、文字通り「遊んだ」。
芸能人や文化人に憧れてライフスタイルを真似てみたり、アイドルや女子アナのような住む世界の違う女性に一方的に憧れて時間やお金を浪費したりしていた。

無限の可能性の中で、(遊びではなく)何か一つの夢や目標を決めることは、とても重い決断だ。勇気がないとできない。少なくとも若い頃の僕にはできなかった。
(逆説的に言うと、20代や30代の段階で人生の大きな決意・決断ができた人は、勇気という徳を備えた人ということになるのだろう。)

決めるのが容易になる40代

40代にもなると、さすがに将来の可能性の幅は狭まるので、現実的な選択肢から「これを目指そう」と決意することが比較的容易になる。言い換えれば、決断に勇気はいらなくなる。

自分の死がリアルになるのも40代

40代になってもう一つ実感したのは、自分の死をリアルに考えられるようになったことだ。
身体的な衰えを実感しながら、ひとつの生命の終わりという生物学的な運命を、認識せずにはいられない。

そしてより重要なのは、
自分の夢、キャリア、お金のこと、大切な人のことなど、
これらの大切な関心ごとは自分の死から逆算して考察することで、より具体的に見えてくるということだ。

仕事と出世に全てを捧げていた会社の先輩が、50代でがんで亡くなるという出来事があった。
その先輩は気の毒だったが、自分は絶対に同じ道を歩んではいけないという確信に至った。

大切ではない仕事は断ることにして、ストレスの原因になっていた仕事の人間関係はリセットした。

人生でやりたかったことをやり残して後悔したくないから、時間を大切にしようと決めた。

自由な時間を得るためには、自分の時間を売って賃金を得る労働への依存を減らしていき、経済的な自由を達成しなければならない。
だから、会社の給与以外の収入源を作る行動を起こした。

万が一の時でも、大切な家族が安心して生きていけるように、ローンを組んで家を買うことを決断した。

どれも、「自分の死」を意識して実際に僕がとった行動だ。

「永遠の時間」と「死からの逆算」

そうこうしているうちに、次のようなインスピレーションが降りてきた。

☆「永遠の時間」の中で憧れの海の中を泳ぎ回り、現実という砂浜に漂着するまでが青年期。

☆「死から逆算」して具体的な目標を設定し、なりたい自分になり、夢を実現するのが中年期。

僕は20歳や30歳のころは、自分がいつか死ぬということを受け入れられなかった。
いつか来る「死」や「老い」に関して、頭では分かっていても、感情的にはありえないこととして目を逸らすしかなかった。
その意味で、「永遠の時間」を前提としつつ、心が喜ぶことをやって生きてきたのが青年期だった。

遊びに心が喜ばなくなった40代

40歳をすぎると、「遊び」に心が喜ばなくなった。
おそらく心は、もう自分が「永遠の時間」の世界にいないということを知っているのだろう。
僕が頭で理解するより前に、心はすでに知っていたのだ。

そして、遊ぶのではなく、「死から逆算して」自分にしかできない人生を創りあげようと行動し、ワクワクする時、心は燃え上がって元気になり、身体も不思議と活性化してくるのだ。

念のため補足しておくと、ここで批判的に言及している「遊び」とは、目的もなくダラダラ酒を飲んだり、暇つぶしや馴れ合いに時間を浪費することなどを差している。
そうではない、いわゆる「遊び心」は大切だと思う。
ユーモアや創意工夫のような「遊び心」は、社会に揉まれて20代と30代で失いかけたが、40代になって「死から逆算して」行動を起こすことによって取り戻せてきている。

ハイデガー的なありふれた話ではあるのだけれど…

なお、この「死を直視することで自分固有の人生に目覚める」みたいな話は、別に目新しい考え方ではない。
20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーが書いた『存在と時間』に出てくる、「死への先駆」の話はあまりにも有名だ。

ただ、僕が自分の頭で考えた限りでは、ハイデガーの見解とは少し違う。

ハイデガーは、死に先駆けることをせずに世間的な価値観に埋没する生き方を、「頽落(堕落)している」と一蹴する。
死に先駆ける(死から逆算した)有限の時間こそが本当の時間であり、それ以外の時間理解は堕落であるとする。

「永遠の時間」は尊い、若い時はたくさん遊ぼう

でも僕は、若い時に「永遠の時間」の中で自由に無様に泳ぎ回った経験があるからこそ、死とセットになったかけがえのない人生のフィールドに辿り着けるものだと考える。

つまり、「永遠の時間」を生きる頽落した時間だって、尊いものは尊い。そう思うのだ。
だから、人生の高いステップに上がる前の段階として、若い人にはたくさんの遊びで経験を積んで、足場を固めてほしい。

これは難しい話ではない。
自分は何が得意(苦手)、何が好き(嫌い)、何に向いてる(向いてない)、みたいなことは遊びの経験を通じて学べる、といえばわかりやすいだろう。

ハイデガーの頽落論と朝倉未来の暴走族時代

総合格闘家の朝倉未来選手は、YouTuber・起業家としても成功を収め、唯一無二の人生を創り上げている。

そんな朝倉未来選手も格闘技に出会う前は、食うために仕事をしながらも暴走族に所属して「永遠の時間」の中で、自由を楽しんでいた。
バイク、飲酒、カラオケ、喧嘩…
ハイデガーからすれば頽落した時間の使い方である。

朝倉未来は当時をこう振り返っている。

それはとても自由で楽しかった。何にも縛られていなくて、好きな時に好きなことができた。

朝倉未来『路上の伝説』(KADOKAWA)p.72

彼はその後、本当の自由には責任が伴うことを悟り、それまでの「本物でない自由」を捨てて、格闘技の道に進むことを決断する。
そしてその先にある実業家としての成功が、格闘技にとどまらないインフルエンサーとしての彼の成功を決定づけることになる。

ハイデガーの図式では頽落した時間でしかないこの暴走族時代のエピソードこそ、今僕たちが知っている朝倉未来というものすごい存在の人生の駆動力であり、原点であると僕は思う。
「あれは黒歴史だった」みたいな単純な評価で片付けられるようなものではないと思うのである。

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