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再起へのナインボール

     [1]

 ーー 2005年  ーー 
 野島丈志が一人で球を撞いているとき、後ろから声がした。
「ひょっとして、ビリヤードプロの野島さんじゃないですか?」
 振り返って見ると、光沢のあるダークグレーのスーツをきっちりと着こなした男が、穏やかな笑みを浮かべている。
「ええ、そうですけど」
 野島が答えると、男は驚いたように両目を見開いた。
「やはりそうですか。私はこの店のオーナーで江頭といいます」
 短めの髪の毛は後ろに撫でつけられていて、こざっぱりとした印象を受ける。髪の毛に白いものが混じっているので、五十代半ばであろうか。淡いピンクのドレスシャツと、赤と黄色の柄のネクタイが派手に見えた。
 江頭は息がかかるほど近づいてくると、いきなり野島の手を握った。
「いやあ、プロの野島さんが店に来てくださるなんて、本当に光栄ですよ」
 彼の手は汗ばんでいて異様に生温かく、野島の手にねっとりと絡みついてくるようだった。
「私の店も、やっと一流プロの方に来てもらえるようになりましたか。こりゃあ、ありがたい。ありがたい」
 江頭は野島の手をさらに強く握ると、握った手を上下に動かした。さほど暑いわけでもないのに、頬を紅潮させ、額にはうっすらと汗を浮かべている。
 店の名前は「ストレートプール」といった。野島がいつも撞いている店ではなく、練習用でたまに来るビリヤード場だ。
 ビリヤードテーブルは十台あるが、どのテーブルも傾いていて、球がすぐにクッション縁に来る。ラシャの破れ目に球が当たって、奇妙な動きをすることもあった。撞いていると、ラシャに付着しているチョークで手が汚れて真っ黒になるので、めったに掃除していないのだろう。
 ハウスキュー(ビリヤード場に備え付けてある貸出し用のキュー)もほとんど手入れされておらず、半分以上のキューのタップ(キューの先端部分)が取れかかっていた。
 そんな店でも野島が来るのは、ひとえに場代が安いからだった。
「私は一流のプロなんかじゃないですよ」
 江頭は野島の言葉が聞こえないかのように、何度も頷いた。
「こんなおんぼろな店に来ていただけるなんて、夢のようです。せっかくですから、先生とお話させてもらっていいですか?」
 先生とまで呼ばれて悪い気はしなかったが、少し馴れ馴れしい男だなと思った。
「もちろん、ここの場代はただでいいですよ。サービスです。好きなだけ撞いてください」
 そこまで言っているのに、断る理由はない。
「じゃあ、少しだけ……」
 江頭は日焼けした顔をほころばせた。
「私は一度でいいから、ハスラーと話してみたかったんですよ」
「私はハスラーではなく、JPBA(日本プロポケットビリヤード連盟)に所属する単なるプロですよ」
「ですからハスラーじゃないですか。あっ、そこに座ってください」
 江頭はテーブル脇の椅子を野島に勧めた。
 ストレートプールにはほかに客はおらず、広々とした店内の一角に、野島と店主の江頭がいるだけだ。古ぼけたエアコンの作動している音だけが、あたりに響いていた。
 周りを気にする必要もない。野島は軽く頷くと、椅子に腰掛けた。粗末な作りの椅子は前に傾いていて、なんとなく落ち着かない。
 江頭は隣のテーブルから座り心地のよさそうな椅子を隣に持ってきて、腰掛けた。お香に似た江頭のオーデコロンの匂いが、野島の鼻を刺激する。
「実は私もビリヤードに凝った口でしてね。ハスラーっていう映画があったでしょう。私はミネソタ・ファッツが好きでねえ。独特のフォームで球を撞く姿に痺れましたよ。渋い男でしたからね、ファッツは。最近ではハスラー2なんて映画があったけど、やっぱりハスラーのほうが好きですね」
 ハスラーは1960年代のアメリカを舞台にした映画だ。若きハスラー、エディ・フェルソン(ポール・ニューマン)が、名手ミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリースン)に賭けビリヤードを挑む物語だ。
 ハスラー2はそれから二十五年後、1986年の映画だ。引退したエディ・フェルソン(ポール・ニューマン)が、若いハスラーのビンセント(トム・クルーズ)を拾って、賭けビリヤードで一花咲かそうとする物語だ。
 野島もビリヤードを始めたばかりの頃、「ハスラー」のビデオを借りて、ファッツのフォームを真似したものだ。
「私が映画を観たのは大学に入ってからです。いまから約二十年くらい前かな。私もハスラー2よりハスラーのほうが好きでしたよ。エディがバーボンを飲むシーンに憧れて、酒はバーボンって決めてたくらいですから」
 野島が答えると、江頭は野島の背中を親しげに何度もぽんぽんと叩いた。
「そう、そう。そうでしょう。そうでしょう。やっぱりビリヤード映画はハスラーです。ハスラーには男の哀愁が漂っていますよね」
 店の壁は煙草のヤニで黄色く変色していて、映画のポスターやカレンダーが無造作に貼られている。プレー中の客が缶ジュースをこぼすのだろうか。床の絨毯のいたるところに染みがあった。
 テーブルや床を掃除せずに汚いままにしているのは、ハスラーと同様に、うらぶれた雰囲気を出したいためなのだろうかとさえ思った。
「江頭さんはフォーティーンワンが好きで、店名をストレートプールにしたんですか?」
「さすが先生。わかってらっしゃる。そのとおりなんですよ。私がやったのはもっぱらストレートプールです。ナインボールをやり始めたのは、ずっとあとになってからです。私も若い頃はビリヤードばかりやっていましたよ。まあ、好きが高じて、こんな店をやってるわけなんですけどね」
 ストレートプールとは、映画ハスラーで競技されていたゲームで、別名を14─1(フォーティーンワン)ラックゲームともいう。ナインボールに比べて難易度が高く、プレーするには技術が必要だ。そのためオールドファンの中には、ストレートプール以外のボケットゲームは大味でつまらないと言う人間がいる。9番を落とすだけで勝てるナインボールを、ツキに頼ったゲームだと低く見ているのだ。
 江頭は、ストレートプールが好きだと言って見栄を張り、ナインボールを撞く若いプレーヤーとは一線を画したいのだろう。
「やっぱりそうですか。ストレートプールなんて、粋な店名ですよね。昨日今日できたビリヤード場とは違う感じがします」
 江頭は得意そうに小鼻をひくつかせた。
「私も昔はストレートプールの賭け球をよくやったものですよ」
 そう言って、江頭は親指で自分を指した。
「こう見えても、昔はこのあたりじゃ有名だったんですよ。賭け球で生活していてね。『ビッグトルネードの徹也』と呼ばれたこともありました。まあ、ハスラーみたいなものでしょうか」
「はあ」
 映画の影響なのか、ビリヤード場では自称ハスラーがあとを絶たない。しかもビッグトルネードなどと、聞いていて赤面するような通り名を江頭は得意気に喋った。
 上を向いて首をぱきっと鳴らすと、江頭は野島の顔を見た。
「先生は賭け球をしないんですか?」
 彼の上を向いた低めの鼻と、離れた小さな目は、蜥蜴のような爬虫類を連想させる。
「最近はなかなか相手がいないんです。不景気のせいですかね」
「それならば、私とひと勝負しませんか?」
 むせかえるようなオーデコロンの匂いに閉口しながら、野島は曖昧に笑った。なにを勘違いしているのか、プロに賭け球を挑んでくるアマチュアがたまにいる。
「そうですね……」
 野島が軽く受け流したので、江頭はむきになったようだった。
「私だって多少は撞けるんですよ。なにせ元ハスラーですからね。プロの方とはまだ撞いたことがありませんが、はっきり言って自信はあります。私の腕が通用するかどうか、試してみたいんです。ナインボールでいいですよ。どうでしょうか?」
 江頭はいつのまにか自らを元ハスラーだと名乗り始めていた。
「じゃあ、お金は賭けないでやりますか?」
「それじゃあ話にならないですよ。勝負は金を賭けなきゃ意味がない。金を賭けないと、先生だって本気で撞いてくれないでしょう」
「私はちゃんと本気でやりますよ」
「いいえ。私もハスラーの端くれです。やっぱり金を賭けないと、真剣勝負じゃない。真剣勝負じゃないなら、やっても意味がない」
 この江頭という男、ひとはよさそうだが、映画の影響を大いに受けているようだ。ビリヤードを生業にする人間は、全員がハスラーだと思っているふしがある。
 ハスラーとは、詐欺的な手段により金銭的利益を得るプレーを行う者を指す。ときに初心者や、酔っぱらいなどを装い、相手を油断させて大金を巻き上げる。英語では「詐欺師、売春婦」という意味にもなる。日本では映画ハスラーの影響で、賭けビリヤードをする人間のことをハスラーと考える人間が多いが、本来ハスラーはビリヤードプレーヤーそのものの総称ではない。ビリヤードプロをハスラーとは呼ばないし、そもそも自らハスラーを名乗るような間抜けな人間が、ハスラーのわけはない。
「でも……」
 自分の腕を低く見られていると感じたようで、江頭は鼻息を荒くした。
「私は昔ビッグトルネードの名で荒稼ぎしてたんです。ビッグトルネードってのは、大きく巻き上げるっていう意味からついた呼び名です。そうそう馬鹿にしたもんでもないですよ。自信がある私だからこそ、先生と勝負をして、どれだけ食い下がれるか試してみたいんです。ひと勝負こっきりでいいんです」
「私はプロなんですよ」
「ですからお願いしてるんです。私はお金にはまったく不自由していません。一度きりの勝負なら、大金を賭けても大丈夫ですよ」
 野島が黙っていると、江頭が意外そうにさっと身を引き、挑戦的な目で野島を斜めに見下した。
「もしかして、私に勝つ自信がないわけじゃないですよね?」
 一度相手をしてやれば、さすがの彼もおとなしくなるだろう。自称ハスラーのほとんどは、野島が真剣に撞くところを見せてやれば、自分がいかに身の程知らずな勝負を挑んだかを理解することが多い。
「わかりました、それではひと勝負だけやりましょう」
「いくらほど握りますか?」
「十万円でどうですか?」
「じゅ、十万円?」
「ええ、レートが高くないとやる気にならないんですよ。なにせ私は元ハスラーですからね。先生もレートは高いほうが楽しいでしょ」
「負けたら十万円をまるまる損することになりますよ?」
「わかりませんよ。私が勝つかもしれないんですから」
 野島は一瞬眉をひそめたが、江頭は気づかないようで得意気に顎を突き出した。
「ビリヤードはしょせん運のゲームです。運さえよければ勝てます。元ハスラーの私にだって、十分勝算はありますよ。まぐれで9番が落ちることもありますしね」
 とんでもない思い上がりだ。一発勝負といえど、アマチュアがプロと対戦して勝てる可能性はほとんどない。そもそも、まぐれを期待する程度の腕で、プロに真剣勝負を挑むなど片腹痛い。
 さすがに野島が気分を害していると察したのだろう。江頭は追従笑いを浮かべた。
「もちろん先生に簡単に勝てるなんて思っていませんよ。ただ、私だって元ハスラーだ。捨てたものじゃないってことを、言いたかったんです。それに十万円っていうのは、お相手していただいたご祝儀だと考えてください。実は私はあなたのファンでもあるんですよ。先生も若い頃は、ビリヤード雑誌の表紙を飾っていたじゃないですか。十年に一人の逸材だって言われてね」
 確かに二十年前、野島は若手のホープとして注目されていた。そんなことまで覚えている人間は、よほどのビリヤード好きか、野島のファンのどちらかだ。どんな人間であれ、自分のことを覚えてくれるのは、嬉しいものだ。
「私の若い頃を知ってるんですか?」
「もちろんですとも。いまでこそ不運な状況に身を置いていらっしゃるようですけど、当時は若手のホープでしたよね。私は若手の中でも、あなたはどこか違っていると思っていましたよ。球を撞くときの威圧感とでも言いましょうか。あなたにはそれが強く感じられました」
「どこで私のプレーを見たのですか?」
「大会を観戦していたんですよ。確かあなたは、そのとき優勝なさった」
「ああ、そういうこともありましたね」
 おだてられているとわかってはいたが、満更でもなかった。
 きっと江頭は人のよい金持ちなのだろう。ビリヤードが三度の飯より好きで、ビリヤードの上手な人間を見ると、少年のように尊敬するのかもしれない。
 賭け球を生業にしている野島は、慢性的にお金がない生活を送っている。最近では賭け球をする資金さえ逼迫する有様だった。正直言って、十万円は喉から手が出るほど欲しかった。それに、いくら高額の賭け球で緊張するとはいえ、素人に負けるわけがない。
 しばらく考えていた野島は、短く息を吐くと、江頭に念を押した。
「本当にいいんですね?」
「ええ、お願いします」
 そのとき、江頭がかすかに忍び笑いをしたような気がした。

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