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教授への言い訳

 級友の嶋田が私に電話してきて、開口一番に言った。
「おい、谷口。甘木教授が帰りにもう一度出席取ってたぜ。おまえだけだったよ。途中で抜けたのは」
 聞いた瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
 なんてことだ。今日私は出席を取ったあと、こっそり教室から抜け出していたのだ。まさか二回も出席を取るとは思わなかった。しかも今日の授業は必修科目。落とすと留年確定になってしまう。
「教授、相当怒ってたぜ。代わりに、みんながとばっちりを受けて説教くらったんだぞ。まったく、人騒がせなやつだな」
 嶋田との電話が終わったあとも、私はしばらく焦点の定まらない眼で、宙をぼんやりと見つめていた。次の授業で私が教授に叱責されることは間違いない。
 私は甘木教授を怒らせてしまったのだ。あの教授は不正をひどく嫌う。今回の行動で、教授に目をつけられ、単位をもらえないかも知れない。
 なんとか誤魔化さなければ。私は、教授に対する言い訳を必死で考えた。
 ぬけぬけと、「すみません。サボってゲームしてました」なんて本当のことを言ったら大変だ。「君には単位なし。不可だ」と冷たく言い渡されるに決まっている。
 どうするか? このまま教授が忘れるまで、二、三回講義に出ないというのも一つの手だ。あの教授ももう年だし、そんなに覚えてはいられまい。
 いや。それはいくらなんでも危険だ。何度も休むと本当に単位をもらえない可能性が上がるだけだ。必修科目だぞ。必修科目。
 いっそのこと逆切れしてみてはどうか?
「ええ。ゲームをするため、授業を抜けましたよ。それがなにかいけませんか?」
 おまえは馬鹿か。そんなことを言ったら、教授の逆鱗に触れるに決まっている。開き直ってどうする? 全面的に私が悪いのだ。授業を抜け出して、ゲームをした私がいけなかったのだ。
 じゃあ、はじめから授業に出なかったことにしてみてはどうか?
「えっ? 昨日ですか? ええ。気分が悪くて欠席してました。返事があったですって? いやだなあ。それは気のせいですよ。気のせいですって。空耳じゃないんですか? ほら先生、もうお年を召していらっしゃるから、少しお耳が遠くなっているかもしれませんね」
 教授を挑発してどうする。しかも年寄り扱いされた教授がむきになって、真実を追求したら厄介ではないか。実際にクラスの連中も、私がいたことは知っているし、単位をやるとか甘言を弄され、ほいほい私を売るやつだって出るやも知れぬ。危険すぎる。危険すぎる賭けだ。
 それではこうしたらどうか。
「あれっ? ぼくは教室にずっといましたよ。先生はなにか勘違いしてないですか? ああ、もしかしたら、ずっと寝てたんで、気づかなかったのかも。はっはっは」
 馬鹿っ。授業中に熟睡していたことを公言してどうする。考えようによっては、こちらのほうが印象が悪いではないか。
「なんだと? そんなに私の授業を聞きたくないか。ようし。わかった。君はもう永久に授業を聞かなくてもいい」
 こんなことを言われたんじゃ、たまったもんじゃない。まさしく藪をつついて蛇を出す、だ。なんのために言い訳したのか、わけがわからなくなってしまうではないか。これ以上事態を悪化させてどうするのだ。
 そういえば、あの教授、たしか酒が好きだったな。高級酒を持って謝罪に行くってのはどうだ?
「先生、これでどうかよしなに」
「谷口屋、そちも相当のワルよのう」
 教授は悪代官か。うまくいくはずがないだろ。それに教授を買収してどうする。とんでもない学生だと言われて、単位どころか大学を追い出されるぞ。
 それではこういうのはどうだろうか?
「谷口君。君、昨日は授業を抜け出したね?」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン」
 おい、単位をもらうという目的を忘れるな。教授をドン引かせてどうするのだ。
 なんとかしなければ。なにか対策を考えるのだ。名案はきっとあるはずだ。
 すべての過ちを認めて土下座でもしたら、許してもらえるだろうか?
「すみません、先生、私はとんでもない過ちを犯してしまいました。この罪は万死に値します。死んでお詫びをしたいと思います。先生、介錯お願いします」
 切腹してどうするのだ。たしかに私は不良学生だが、死ぬほどの罪を犯したわけではない。いいじゃないか。少しくらい不良学生がいても。
「そうだ。私は不良学生だ。それが悪いか? 私の不真面目で、君の給料が下がるとでもいうのかね? えっ? 不真面目な学生は生きる価値すらないと君は言うのかね。君は私の人間としての尊厳さえも冒すつもりなのかね。私を社会から抹殺するとでもいうのか。チンケな大学教授ごときがやれるのかね。どうなんだ。おう? おう? おう?」
 私はならず者か。教授に喧嘩を売ってどうするというのだ。こんなこと言ったら、教授を完全に怒らせてしまうではないか。
 おい、見ろよ。あの先輩、教授を怒らせて、必修科目を落としたんだってさ。ほら、馬鹿だろう。哀れだろう。くすくす。
 そうやって後輩に憫笑されることを想像しただけで、屈辱のあまり体がぶるぶると震えだしてくる。みんなに嗤われるなんて、私には耐えられない。
 なんとかしなくてはいけないのだ。なにか考えだせ。私は思案に思案を重ねた。
 しかしいくら考えても、私にはなんの考えも浮かばなかった。そして、もうどうでもいいという考えが私の心の隅に巣食ってきた。ああ、なにもかもが、わずらわしい。
 いいだろう。私はたしかに授業を抜け出したが、前科になるような罪を犯したわけではない。堂々と振る舞えばいいのだ。間違ったことをしましたと潔く謝って、それで教授が許さないなら、それはそれでいいではないか……。
 いや、やはりまずい。必修科目だぞ。留年が確定してもいいのか。母親に泣かれてもいいのか。なんとしてでも教授が納得する言い訳をひねりだすんだ。私に残された道はそれしかない。諦めるな、谷口。

「谷口君。谷口君はいないのかね?」
 はっと気がつくと、甘木教授の声が聞こえる。どうやら眠っていたようだ。周りを見渡すと、クラスの連中が、私のほうをいぶかしげに見ている。
 ここは教室だ。どうやら私は、甘木教授の講義を聞きながら寝てしまったらしい。
 よかった。夢だった。私はきちんと授業に出席していたのだ。そして、いまこうして出席を取られているのだ。私は授業をサボってなんかいなかったのだ。
 私はほっと安堵の胸を撫で下ろした。助かった。本当に助かった。ありがとう。神様。
「谷口君!」
 いつまで経っても、私が返事をしないので、甘木教授が苛立ったように言った。いかん。返事をしなければ……。
「ひゃ、ひゃい」
 しまった。「はい」と返事をするつもりだったのに、変な返事になってしまった。私の声を聞いて、みるみるうちに甘木教授は顔をこわばらせた。
「なんだね。そのふざけたような返事は。君はいままでずっと眠っていたのかね?」
 立ち上がって言い訳をしようとしたら、慌てたためか足がもつれて、お笑いコントのように派手に転んでしまった。その姿を見て学生たちがどっと笑った。
 甘木教授は顔を真っ赤にして、私をなじった。
「君は極めて失敬な学生だな。授業で眠るだけでなく、私を馬鹿にするつもりか。ようし。いいだろう。君はもう来週から来なくていい。そんな学生には単位はやらん」

(了)

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