障害のモデル化feat.社会モデル
〈障害とは何か〉、〈障害を障害たらしめている最もコアな要因は何か〉――といった定義(≒モデル化)は、障害者の生活を向上させるためのアプローチでもある。
かつては、障害は例外なく医療の領分だった。
例えば脚を骨折して歩けなくなった人に、適切な治療を施してまた歩けるようになってもらう。このようなアプローチを病理モデルまたは医療モデルと呼ぶ。
このモデルの大きな弱点は、医療には限界があることだ。(ある時点での医療では)治せないものは治せない。歩けなくなったらずっとそのままだ――障害を医療モデルで捉える限りは。
現代では医療モデルに囚われず、社会と生活空間のデザインによる解消が試みられている。
患者当人を治せなくても、社会の側(都市計画や建築物の設計など)で対処しようとするのが社会モデルだ。
例:エレベーター
『階段を上れない』は治せなくても
『上の階に行けない』は解消できる
例:リモートワーク
『通勤が難しい』は治せなくても
『働けない』は解消できる
本稿は社会モデルについて、関連用語(インペアメント、ディスアビリティなど)や基礎的な考え方を踏まえ、筆者の私見を述べる。
◆用語について
本稿では以下の意味で語句を用いる。
機能不全
怪我・病気による症状・後遺症として現れる、機能上の問題。中でも短期的な回復が見込めないもの。
エレベーターの例では『階段を登れない』。
障害
インペアメントのせいで得られない便益。
エレベーターの例では『上階へのアクセス』。
この2つを分けることが大きなパラダイム・シフトだった。病理モデルではそれらを区別しなかったからだ。
病理モデル/医療モデル
両者を分けない。あえて上の言葉を使うなら『インペアメントを消せば(治せば)ディスアビリティも消える』的な考え。
アプローチ対象は個々の患者。なので個人モデルと呼ぶことも。
社会モデル
『インペアメントを抱えたままでもディスアビリティにならない社会を作ろう』的な考え。
アプローチ対象は社会。
また、以下では『非障害者』を指して『健常者』という表現を用いる。議論のある言葉なのは承知しているが、一定年齢以上の非障害者にとっては馴染みがあると思われるので、ご寛恕頂きたい。
◆社会モデルの掘り下げ
まずは筆者の私見をなるべく交えず、『社会モデルではどう考えるか』を詳らかにしたい。
(健常者からの)素朴な疑問・その1
社会モデルの見方に対して、内心ではこう感じる方も居るだろう。
これは偏見というものだが、健常者の日常からはピンと来づらい。仕方のないことだ。
よって、まずはその固定観念を適切にほぐしてくれる例をご紹介しよう。
○障害だらけのバリアフル
『バリアフル』は、車椅子ユーザが来店することを前提にした架空のレストラン(を体験するインスタレーション企画と言うべきか)。
店内は一貫して車椅子生活者向けにデザインされている。店員は全員が車椅子だし、車椅子以外での来店客も(あえて)想定していない。
二足歩行者にとって快適な店ではないだろう。天井もテーブルも低くて二足歩行者には使いづらいし、椅子なんてものはわざわざ持ってこないと一脚も無いし、店員も二足歩行者を障害者扱いして細々と気を使ってくる。
実際、車椅子生活者の日常はそんな感じだ。それを体験してもらおうという試みである。
○障害者は障害者?
物事をスムーズにこなせるのが車椅子生活者で、いちいち人の手を借りる羽目になるのが二足歩行者。
ならばこの小さな社会における『障害者』とは、一体どちらのことだろうか?
『バリアフル』の例がはっきりと示しているのは、割と当たり前なのに忘れがちな事実。
環境要因(テーブルの高さなど)と利用者の特性(身長など)の間にミスマッチがあると使いにくい。
かつて公共空間は健常者の身体だけに合わせてデザインされていた。そのため車椅子生活者にはマッチせず、使いにくかった。それこそが社会モデルでいうディスアビリティだ。
進化論の重要な概念である適者生存と、障害の社会モデルは少し似ている。
これと対比する形で言えば、
となるだろう。
障害とは『個人の特性が社会の特性と不適合な状態』であって、個人の特性自体ではないのだ、と。
社会モデルの効果・効能(1/2)
障害を上のように捉えれば、『幅広い人に適合可能なデザインによって障害に苦しむ人を減らす取組み』へと繋がる。
医療モデルではどうしようもなかった例でも、ものによっては問題を取り除ける――それを狙った――視座なのだ。
具体例として、最も健常者の目に触れやすいのはユニバーサルトイレの普及だろう。最近は本当に色んな場所に設置されていて、車椅子生活者はもちろんオストメイト(人工肛門または人工膀胱を設置している人)も大いに助けられている。
その他様々な都市整備に助けられて、視覚や聴覚など他の障害者も社会活動に参加しつつある途上だ。社会との適合度は確実に上がった(=障害度が下がった)と言えるだろう。
社会モデルの課題・難点(1/2)
環境要因の内、{天井の高さ,テーブルの低さ,椅子の有無}といった物理的要因には様々な改善が見られる。
しかし既に述べた通り、問題はインペアメントそのものではなく社会との適合度なので、そればかりとは限らない。
言葉が全く通じない国に行ったとしたら、結果的に読み書きができないのと同じ状態だ。目や耳にインペアメントがなくてもディスアビリティを背負うだろう。
手話が標準語だという国があれば、発話能力や聴力にインペアメントがあってもディスアビリティにならないだろう。
こういった非物理な面も、社会の要素として〈障害〉を規定している。
ちなみにバリアフルを体験した方からは、『障害者扱い』への戸惑いの声も多かったらしい。それは明らかに物理的な要因ではないが、〈障害者の体験〉としては外せない側面だと考える。
物理的な側面に比べ、こちらはまだまだ様々な障壁がある。
『障害への理解』だとか『思いやりのある社会』といった題目は測定できないが、例えば手話通訳技能認定試験の受験者数が目覚ましく増えたりしていないのは事実である(ソース:【参考2】のPDF)。
こうした課題について、社会モデルは今のところ具体的な対策を示せていない。
(健常者からの)素朴な疑問・その2
ここまでで、社会モデルがどういう考え方はある程度伝わったことと思う。
では、『今後も更に物理的なユニバーサル化を推し進め、心理的な壁もなくしていき、手話や点字を多くの人が当たり前に使えるような社会を目指していきましょう』――などという目標を掲げられて、心からそれに取り組めるだろうか。
正直なところは答えにくいだろうから、かつて健常者だった筆者の予想を述べてしまおう。口には出さずとも、こんな思いを抱く方はさほど珍しくないはずだ。
2022年現在、このような疑問の声を大っぴらに上げられる人はかなり少ないだろう。そして社会モデルを推し進める側もこのような論点に触れようとしない。まるで『障害者の社会進出は間違いなく良いことであり、健常者の義務であり、疑いすら差し挟んではならない』とでも言わんばかりの態度である。
筆者はそのような空気に強く反対だ。
健常者からすれば抱いて当然の疑問なのだから、きちんと答えるのが筋というものである。
◆以下、私見
以下は『社会モデルの考え方』ではなく筆者個人の考えに過ぎないことを念押ししておく。
上の疑問への答え
障害者が健常者にかける負担について。
社会モデルを名乗る以上、まずはここから始めなければならない。ただ障害者が進出すれば良いのではなく、そこで健常者と共存することを目指すのだから。
筆者がもし訊かれたらこう答えるだろう。
脅すわけではないが確率的な事実として、誰もが障害者になりうる。
そうなった時に協力や慈悲が必要だと思うなら、それを理由として、健常者でいられる内は手を貸す側に回ることもできるだろう。
――但し、これも付け加えておきたい。
○筆者が望む助力
個人的かつ積極的な協力を、義務のように強いることはできないし、強いるべきでもない。
これには心情的な理由も大きいが、『健常者が義務感を抱くと障害者にとっても不利益になるから』という功利的な側面もある(次節『義務感の障壁』で詳述する)。
ただし、個人的ではない薄く広い負担については別だ。例を挙げておくと――
自動改札機の数
大抵の自動改札は1箇所だけ幅が広くなっている。そうしないと車椅子などが通れないからだ。
仮に駅の利用者を健常者に絞れば、そのような幅広のレーンは必要なくなり、改札機の数を増やせるかも知れない。
その方が乗客の出入りはスムーズになるだろう。つまり幅広のレーンは健常者に薄く広く迷惑をかけている。
バスなどの運行予定
車椅子利用者がバスに乗り込むには健常者に比べて時間がかかり、そのせいで時刻表通りの運行ができない場合がある。正確には、そうした所要時間も想定して運行予定にはある程度の余白が設けられている。
仮にバスの利用者を健常者に絞れば、そのような時間を削れるかも知れない。
その方がより早くより遠くの停留所まで着けるだろう。つまり車椅子でのバス利用は健常者に薄く広く迷惑をかけている。
――こういった負担に関しては、ある条件を満たす限り受け入れてもらいたいし、また受け入れ可能だとも考えている。
○薄く広い負担を要請する論拠
条件とは、〈他の利用者が被る迷惑が僅少である〉か、もしくは〈受益対象が狭すぎない〉ことだ。上の例は後者に該当する。
自動改札の幅が広い場所は、車椅子以外にも幅広のベビーカーが通ったり、小さな駅では売店や自販機への搬入業者が使ったりもする。急病人などが出た場合のストレッチャーや担架も通りやすい。
つまり改札機を最大数置かないことによるメリットは車椅子生活者以外も広く享受している。
バスの運行予定にはどうせ余白が必要だ。車椅子ほどではないとしても、高齢者や脚の不自由な人は乗り降りに時間を要する。健康な人でも、ICカードをタッチしたらチャージ金額が足りなくて降車に手間取るなんてうっかりミスはままあるものだ。仮に運行予定がぎりぎりであれば、運転手からも他の乗客からも睨まれることになるだろう。
つまり運行予定の余白を消費するのは車椅子生活者に限られない。
このような迷惑であれば、筆者は堂々と、健常者の方々に負担を要請する。
何故なら公共交通機関とは最初からそういうものだからだ。
駅などの公共性
駅に特定個人の専用設備があったら不公平だ。対して、誰でも使えるなら不公平ではない。
使えるのが特定個人だけな点が問題。つまり受益者の限定性は低く(≒公益性は高く)あるべき。
ほとんどの利用者は、時刻表通りの運行であれば『自分がホームで待ってるんだから早く来い』などとは言わない。つまり私益ではなく公益を提供するサービスであることは当然の前提と受け入れている。
公共インフラ自体が強いる負担
広い土地を占有し、大量の電力を消費し、周囲に騒音や振動を撒き散らす――これらは周囲にとって薄く広い迷惑だ。
近隣住民に罪悪感や申し訳無さを感じる利用者も居るかも知れないが、実効性は低い。多くの人を運ぶニーズがある限り、電車というインフラが無くなるわけではないからだ。
ある公益のために他の公益を制限し・消費し・受忍させることは、公共インフラの常である。治水と発電のためのダムなどが典型例。
障害者に利用させることの公益とは、先述の『明日は我が身』。
というわけで、公共交通機関の利用者は誰だって私益を制限されても受け入れているし(1.)、誰だって他の公益を薄っすらと害している(2.)。
ならば障害者による利用だって同じことだ、と考える。
義務感の障壁
しかし先に述べた通り、個人レベルの協力を求めるつもりは無い。
例えばエレベーターに乗る際、先に並んでいた人が順番を譲ってくれることがある。個人としては有り難い限りだが、社会としてはもっと雑に扱ってくれる方が、健常者も楽だし障害者にとってもプラスに働くだろう。
○ソフト面の理想的な共存の例
障害には様々なものがあるので、社会とよく共存できているものも、あまりできていないものもある――では『良い共存』とはどのようなものか?
筆者にとって理想的なポジションにあるのが視力(近視や遠視)である。
眼鏡をかけていても『障害者だ』と特別視はされない(中には近視が強すぎて手帳を持っている人もいるのに、ほとんど意識されない)。
教室などで近視の生徒に前方の席を譲るような配慮も、そこまで特別なものとは見做されない。
眼鏡をかけた誰かから『(遠くの小さな文字を指さして)あそこに何と書いてあるか教えて』と頼まれたとしよう。その時、堅苦しく『思いやり』などと考えるだろうか? むしろ『面倒だな』ぐらいに感じながら、答えたり断ったりするだろう。
答えるか断るかは頼んできた人との関係次第であって、『目の悪い人の頼みなんだから断っちゃいけない』なんて強迫を感じることは少ないと思われる。
このように、近視や遠視は特別扱いを受けない。(実はこっそり障害者手帳を持っていても、)健常者と同じ社会に溶け込んでいる。
一方、車椅子の人間が何か頼むと強制性が生じがちだ。断りづらい・断ってはいけないと感じさせてしまう。
そのせいで障害者としても、家族などのごく親しい間柄でなければ頼み事もしづらい面がある。
障害者は頼みづらくて健常者は断りづらい、お互いになんとも非効率な悪循環ではないか。
○障害者を雑に扱う意義
『雑』というのはもちろん暴力的な扱いではなく、引き受けたくないことは気兼ねなく断れるような、そういう扱いを意図している。
(緊急時は別として)気楽に断れて気楽に頼める関係の方が、相互理解は進みやすい。何を求めているのか、何なら叶えられるのか、情報交換の機会が増えるからだ。これは障害者にとっても明白にメリットである。
――というより、あたかも『頼まれたら断ってはいけない』かのような特権的立場に据え置かれている限り、社会からの理解など進まないのではないだろうか。憧れが理解から最も遠い感情であるように、特別扱いは理解を妨げる。
このような義務感の障壁がある限り、障害者は健常者の社会にとってのお客様――悪く言えば異物――だ。健常者がオモテナシを強いられるのだとしたら、面倒臭いと拒みたくもなるだろう。
筆者としては、オモテナシは要らないので同じ社会で普通に居させて欲しいと願う(筆者自身については概ね叶っているが、叶っていない例も多い)。
社会モデルの効果・効能(2/2)
とは言え、障害者への態度をがらりと変えることは難しいだろう。〈障害の無い人と同じように接する〉だけのようで、なかなか簡単ではない。
一番穏当な解決策は間違いなく〈馴れ〉。
日々の生活のあちらこちらに当たり前に存在していれば、『そんなに肩肘張った “思いやり” なんて別に必要無い』ことはやがて分かってもらえる――少ない実体験から言えば。
その意味では、まずハード面だけ整えて障害者を社会に連れ出し、後はそれを維持できればソフト面は後から付いて来る……と期待するのも良いだろう(もちろん当事者にも健常者にもそれなりの積極性は必要だが)。
『社会モデルの課題・難点(1/2)』の節ではソフト面の課題に方策が弱いことを指摘したが、障害者を公共空間に連れ出して接する機会を増やしただけでも、社会モデルの意義は大きいものと考える。
社会モデルの課題・難点(2/2)
さて、ここまでの『障害』は、主に身体的インペアメントに基づくものを想定していた。そして社会モデルは一定の成果を上げている。
そこで誰かが考えた。
可能なら素晴らしいことだとは思う。が、筆者としては『ちょっとどうしようもないのでは……?』と感じるし、理論的にも躓いたらしい。
しかしこの試みはそこで止まらなかった。
医療モデルで救えなかった人を、社会モデルで救ったように――社会モデルでも救えない人を、新しいモデルで救おうという試みがある。
その新しいモデルを、人権モデルという。
だいぶ長くなってしまったので、本稿は社会モデルに関する話題に絞って、ここまでとする。人権モデルについては別稿で。
◇余談(人権モデル)
感情的には、筆者は人権モデルの理論よりもやり方が気に食わない。『障害者の人権保障は間違いなく良いこと』『疑いすら差し挟んではならない』的な振る舞いと親和性が高いからだ。
つまり人権モデルに否定的なことを言うと反論ではなく『人権侵害!』とか『障害者差別!』といったレッテルを突き返してくるような。障害者からの頼みは何であれ断ってはならないとする特権を強めたがるような。
筆者の好みとは根本から相性が悪く、人権モデルとは何かを私見を交えず紹介する自信はあまり無い。
それでも構わなければ、下記を参照されたし。
Twitterだと書ききれないことを書く