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スイセン

「スイセンには毒があるでしょうか?ないでしょうか?」
仕事も納め休みに入った去年の暮れ、家でぼーっとしていると小学一年の娘が突然背後からクイズを出してきた。
「スイセン?え、毒なんてないでしょ。ない」
「ブー、不正解です」
「え?ホント?てゆうか何見てるの?」
娘が持っていた本をつまみ上げると、図書館で借りてきたと思しき「街の危険生物」的な子供向けの図鑑だった。開かれたページに毒のある植物が載っており、ここから出題したようだった。
全く知らなかったが、読んでみると確かにスイセンには毒があると書かれている。詳細は不明だが、きっと大した毒ではないのだろう。
キャプションには加えて甘い香りがするとの記述もあり、毒の有無よりそちらの方に驚いた。あれだけ目にするのに一度も匂いを感じたことはなかったからだ。

これまでの園芸ライフにおいてスイセンにただの一度も興味を抱けなかった。
春になるといたるところで開花しているので、わざわざ育てるという発想が湧くはずも無く、また、丸っこく広がる白い花弁の中心が黄色く飛び出ている様が目玉のおやじのようで、群生しているとちょっと気持ち悪いなとすら思っていた(品種にもよるが)。
そんなありふれた花が毒と芳香どちらも兼ね備えていると知り、その意外な特性に初めて興味が湧いた。

忘れもしない、数日後の2021年12月30日深夜。
年賀状の束を郵便ポストへ投函した時のことだった。
郵便局前のプランターに植えられたスイセンが花を咲かせているのを見つけた。娘の図鑑の記憶も新しかったのでどんなもんかと、軽い気持ちでスイセンに鼻を近づけ、思い切りスーッと鼻で息をした。
油断していた分刺激が強かったのか、なんとも言えぬ多幸感へ導く甘い香りが、全身を突き抜けた。凡庸な表現しか思いつかず恐縮だが、その瞬間パーっと、脳内でお花畑が広がったのだった。
暮れの寒さも忘れ、しばらくそのお花畑に身を委ねていた。
ぼーっとしながら帰路につく。途中コンビニで、缶チューハイ二本とアタリメを買った。いつもなら商品をレジに置くやいなやタッチパネルに向け人差し指を突き立て年齢確認ボタンの表示をじっと待つのだが、その日は店員さんに「確認ボタンおねがいします」と促されるまでそれを忘れていた。脳内のお花畑に片足突っ込んだ状態で、上の空だったのかもしれない。
全く興味を持てなかったスイセンだが、一歩先にあの香りはずっと存在していたのだ。街でスイセンを見かけた数だけそれを見過ごしてきたのだと思うと悔やまれる。あの香りをもっと嗅ぎたい、スイセンを育てたい。その日の晩酌中にすでにその思いに達していた。

翌日の大晦日、家族三人で二年ぶりの実家に帰った。慌ただしい一日が落ち着いたのは娘も眠った年の明ける一時間ほど前。朝から時間を見つけてはスイセンを検索し、どの品種を買おうか見当もつけていた。布団の中でゆく年くる年の除夜の鐘が聞こえる中、馴染みの園芸ネットショップでペーパーホワイトという品種のスイセンをi phonから4球購入。

東京に戻り一週間ほどで届いたナルキッススペーパーホワイトは、植え替えてすぐに訪れたシーズン最大の寒波に見舞われ、厳しい環境の変化のためかしばらくはほとんど変化が見られなかった。
葉先が茶色に変色し始め「やっちまったか!」と思ったが、それでもスイセンを信じ辛抱強く待っていると、寒波も過ぎた二月の頭頃、植えた日の写真と比べ少しだけだが明確に背丈をのばしていたのが確認できホッと胸をなでおろした。

それ以降スイセンは対生の二枚の平たい葉を、V字にグングン伸ばした。ひとしきり伸ばすとその内側にまた対生の葉を同じくV字に伸ばし始めた。それを何遍か繰り返し葉数を増やすと、今度は先端を少し膨らませた花芽をV字の中心部から伸ばした。
一本の太い花芽は伸びるにつれ、ビニール袋にボールをたくさん詰め込んでキュッと縛ったような、そんな形状の先端をどんどん膨らませ、日に日に張りを強めていった。
ある日、とうとうその袋状の花芽に亀裂が入ると、ひしめき合う白いボール状の蕾が隙間から顔を覗かせた。亀裂は日に日に広がり、白く丸い蕾たちは我先にと外の世界へ向かい、それから数日の間に、ぽろりぽろりと、順次ボールが溢れるようすべて外界へ飛び出し、袋は完全に破裂した。
蕾は数えてみると十個あった。球根一球に対し十個の蕾。同じ鉢の中に四球植えており、もう一球もやや遅れを取りながらも同じような成長を続けているが、あともう二球はかなり成長が遅く、恐らく今年は咲かないだろうと思われた。

それからというもの、毎朝起床とともにうがいをしコップ一杯の水を飲むと、リビングですでにリモートワークを始めている妻を横目に、寝癖にパジャマ姿で庭に出てスイセンの蕾の様子を確認するという日が続いた。

順調に蕾を膨らませ続けたスイセンはそれから数日後、とうとう最初の一輪を開花させた。小さいながらももう少しワイルドなものを想像していたが、写真で見ていたのよりコロンとしており清楚でかわいい。

いよいよスイセンを買った動機である、その香りを堪能できる日が来た。
が、念願の開花だというのに、その日の曇り空と同様僕の心は沈んでいた。
恐る恐るスイセンに鼻を近づけるが、全く匂いはしない。息を吸い込んでいないから当然だった。正確には吸い込めなかったと言うのが正しい。
というのも、まるで開花に照準を合わせたかのように、数日前から重度の花粉症を発症し、そのせいで鼻が100%詰まっていたのだ。
毎年のことなので、こうなる前に病院へ行くべきだったが、ちょうど仕事の繁忙期と重なりなかなか病院へ足が向かなかったのだ。

流石にこりゃまずいと思い、すぐに病院へ行き薬を貰ってきたが、薬を飲んだとたんに万全に戻るわけではない。数日飲み続け徐々に効果が出てくるはずだが、ややもすると花粉の時期はずっと鼻の調子が悪いままかもしれない。球根の花が咲いているのは恐らく二週間ほどだろう、その間に鼻の詰まりは解消されるのだろうか?
花が枯れるのが先か、鼻水が枯れるのが先か、花と鼻の持久戦だ。

心配をよそに薬のおかげで鼻の通りは少しずつだが良くなっていった。薬を飲み始めた数日後の朝、スイセンの前でグッと鼻に力を込めると、ジジッと音を立て少し息を吸い上げることができた。「やった!」と思ったのも束の間、直後にふんわりと感じた香りに疑念が浮かぶ。想像していた香りと違ったのだ。いい香りであれば微弱でもグッとテンションが上がりそうなものだが、その時は何も感じなかった。これも花粉症のせいだとその時は思い過ごした。
それからも毎朝スイセンの前で香ったが、鼻の症状が徐々に回復してくると、この香りは去年の暮れ郵便局前で香ったスイセンのもとは違うのではないか、という疑念は残念ながらあっさりと確信に変わった。

まず、やはり気分が高揚しない。パーっとお花畑が広がらないのだ。甘くないとは言わないが、甘さの他に何か別のものが確かに存在するが、それがなんなのかは判然としない。鼻の調子のいい時、グッと息を吸い上げると、思わずウッと顔を背けさせる何かがその匂いの中にあった。
品種の違いでこんなにも香りに違いがあるなんて予想外だった。
ネットで軽く検索をかけると「ペーパーホワイトは美しいけど匂いがちょっと、、」と書かれているのを見つけた。ただ、そういう類のものはたくさんある。ゼラニウムだって、いい匂いという人もいれば、苦手という人もいる。
ペーパーホワイトは香水の原料にもなる品種だ、苦手な人がいたとて悪臭なはずはなかった。

歳を重ねるにつれ、苦いものや臭いものの旨さが分かるようになるとよく聞くが、このペーパーホワイトの香りもそんなものではなかろうか。
コレコレ、この味だよ、と、クサいもつ焼きをガッついて放つそんな類の言葉が、一年後このスイセンに向けられるに違いない。そして、去年の暮れにたどり着いた幻のお花畑のもっと先へ、いつの日かこのペーパーホワイトは導いてくれるはずだ。そんなことを夢想し、それからも毎朝スイセンに鼻を向け続けた。

とある休日、いつものように起床とともに庭へ出ようとしたら、洗濯物を干し終わった妻がちょうど庭から戻ってくるところだった。
「おはよう」と声をかけつつ、すれ違いざまに
「なんか、臭うね、お庭」と苦笑いをするのだった。
とっさのことで一瞬なんのことかわからなかったが、すぐにスイセンの香りのことだとわかった。確かに最初に開花した球根の蕾は全て開花し、遅れていたもう一球もほとんど開花していたので、ほとんど満開と言えた。日毎に芳香も強まっている。相変わらず鼻が万全ではなかったので気がつかなかったが、開花当初鼻を近づけないと分からなかった香りも、数歩離れていても言われてみればツーンと感じられた。
「あー、これはスイセンだね。こないだ買ったやつ。ちょっと癖のある匂いするよね。え、臭い?」
冗談交じりに僕が問うと妻は苦笑いのまま答えに窮している。
僕と妻のやりとりに気がついた娘が
「ナニナニ?どうしたの?」と会話に入ってきた。
「お花のお話してたんだ。こっちきてごらん。このお花いい匂いするから」
僕に促され恐る恐るスイセンを香った娘はこう言い放った。

「クサイ!ウンチのにおいがする!」

ぼくとスイセンの二ヶ月あまりの物語はこれにて終了。

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その後スイセンについてもう一歩踏み込んで調べてみると、スイセンの香りには六種あり、その一つにアンモニア成分の強い種類があるという。代表品種がまさにペーパーホワイトであった。デパートやホームセンター等の公衆トイレの臭いから娘は「ウンチ」に結びつけたのだろうが、ペーパーホワイトの香り=ウンチの香りというわけでは決してない。

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