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トケイソウ

去年の夏、トケイソウの苗を買った。

以前から気になっていたので、園芸店で見つけた時、すぐに買うことに決めた。苗を手に取ると、つる植物なので伸びた茎が隣の苗に絡みついており、うまく持ち上げられなかったので、店員さんを呼ぶことにした。レジ近くに店員さんを見つけたが六十代と思しき女性客の接客をしているところだった。しばらく待ったがなかなか話が終わらないので、牽制の意味も込め「すみません」と声をかけると「どうしましたか」と見覚えのある男性の店員はすんなりこちらに来てくれた。それまで話してた女性も一緒についてきたので(あ、そうか、この女性は店員さんだったのか、待ってた時間無駄だったな)と気がついた。
「このトケイソウ欲しいんですが、絡まってて取れないんです」というと、ついて来た女性が真っ先に「トケイソウこんなところにあったんですね!」と言う。
ぼくが言葉の意味を理解する前に女性はそのまままくし立てた。
「トケイソウってパッションフルーツのことですよね?これを育てると実がなるんですか?え?これは観賞用なんですか?へー、そうなんですか!ウチでも育ててるけど全然実がならないのはそういうことだったんですねー、知らなかった、パッションフルーツの実を育てるにはどうすればいいんですか?あー、木の苗を買えばいいんですね、やっぱりそうですよね‥‥‥‥」
話し続ける女性を見て何となく状況が飲み込めた。
この人は店員ではなく、おしゃべり好きのお客さんだったのだ。店員さんは絡まったトケイソウを解きつつ女性の質問にも答え続けた。おしゃべり好きと言えど大切なお客様を邪険に扱うわけにはいかないのだろう。
トケイソウを解き終わり僕に渡してもなお女性客のマシンガントークは収まらず、僕と店員さんは棒立ちで適当に相槌を打ちつつ話を聞き続けた。
「受粉はどうすれば‥‥‥あー、そうなんですね‥‥‥コーヒーの木も育ててたんだけど‥‥‥‥‥全然実がならなくて‥‥‥夫がいた頃は‥‥‥私びっくりしちゃって‥‥‥‥」
ひとしきり喋り終えると女性は唐突に詫びを入れ去っていった。店員さんは(すみませんね)と目配せをしトケイソウの苗を持ってレジへ向かった。

たまたまだが、その少し前にも同じようなことがあった。娘と二人で近所のホームセンターに行った時のことだった。娘が園芸コーナーで、レモンやぶどうの木が欲しいと喚いていると、「あらかわいいお嬢ちゃん」と前述の女性と同年代の女性が娘に話しかけて来たことがあった。
「私にも孫がいるの。年中?ちょうどお嬢ちゃんぐらい。けどこんなご時世だもの、最近は全然会えない。電話はしくれるわ、スマホのテレビ電話で。最近は〇〇が好きみたいで‥‥‥‥‥息子は40で埼玉に‥‥‥‥全然かえってきやしない‥‥‥‥ほら私今一人じゃない‥‥‥全然さびしくなわ‥‥‥ちょっとは帰って来てもいいじゃない‥‥‥」
同じようにマシンガントークが繰り広げられ、娘は戸惑ったように僕の足にしがみついている。その後もしばらくトークは続き、挙句コロナ直前に息子に浜田省吾のコンサートに連れてってもらったエピソードまで披露していただくにまで至った。
ひとしきり喋り終えるとその女性も詫びを入れ去っていった。

二人とも身なりは綺麗だったし、きちんと詫びを入れていることから、根っからの変な人というわけではないようだった。ただ普通というにはちょっとばかり一人喋りが長すぎた。
話かける僕の先に、「今じゃないいつか」の「僕じゃない誰か」を見ているようにも感じた。
詫びを入れて去る二人が落とす影はともに一抹の寂しさを含んでいた。

庭の隅に植えたトケイソウは、フェンスに誘引すると巻きひげを伸ばしぐんぐん成長したがその年は花は咲かさなかった。無事冬越しに成功し、春になると巻きひげをフェンスに絡みつけ再びぐんぐん茎を伸ばして行った。
五月の頭には、紙風船のような小さな蕾をいくつかつけ始めた。

自分があの園芸店で出会った女性と同じくらいの歳の頃、いったいどんな生活をしているのだろうか。二十か三十年後の話だ。あの女性等と同じようにふらっと園芸店に立ち寄ることはできているだろうか。
楽しみなこともたくさんあるし、もちろん自分なりの幸福を求め必死に生きることに変わりはないのだが、人生の折り返し地点である三十代の後半で母の死を経た上でこの先のことを考えると、これからの人生悲しいことの方が多いんじゃないか、という気になっている。
いつ誰が死ぬかわからない。自分もそうだが皆老いていく、考えも変わる、関係も変わる。時間が流れる限り、そりゃ当然のことだ。
(変わらないことなんて何もないのです)先日ラーメンを食べに行く途中通りかかった寺の掲示板にそんなような空海の金言が張り出されていた。
母の葬儀に来ていた、昔よく遊んでもらった叔母と光GENJIの話で盛り上がることはもうできそうにない。
仲の良かった同年代の従兄弟のメグちゃんは母の葬儀に来てすらいない。三児の母にはいろいろと事情もあるのだろう。
幼少期から拠り所にしていた「あそこに行けばアレがある」という思い込みはいつのまにか幻想にかわってしまったのだと改めて感じることがこのところ多い。

ぼくは生きている限り花を育て続けたいなと思っている。
何が起ころうとも、毎日変わらず花に水をやり続けるなんて、そんな素敵なことはないと思うからだ。好きな服を着て、ふらっと園芸店に立ち寄れる生活が年老いても続けられたならば、たとえ自分の落とす影に一抹の寂しさが含まれていたとしても、それは立派な幸福じゃないか。
そんなことを考えていたら、園芸店で僕に話しかけてきたあのぼんやりとしていた二人の女性が、なんだかとても頼もしく思えてきた。

五月の終わりにトケイソウが咲いた。
この先自分は時計の針を戻したいなんて思うことがあるのだろうか?
時計盤の様な不思議な形をした花を眺めていたらふと思った。

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