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首都高速の不可視な道路を探す

首都高速は、高度経済成長期(一般的に1954年から1973年とされることが多い)のど真ん中である、1962年に開通した「京橋ー芝浦間の4.5km」から始まります。

それは、1964年の東京オリンピックに合わせるように、羽田空港と都心を結ぶルートが必要だったということで、他には東京モノレールも同様の目的があり、日本の技術を対外的にアピールする意味合いもあったことでしょう。

こういった道路は、都市計画に組み込まれて作られる流れになっていますが、とん挫したもの、代替案に置き換わったもの、住民の反対があったものなど、理由は様々ですがたくさんあるようです。

特にその中でも大規模な計画だったと思われるのは、「首都高内環状線計画」というものです。


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内環状線は、江戸城の外濠(神田川や、隅田川含む)をぐるっと回るように作られています。

内環状線と連絡する道路は、1969年頃に飯田橋周辺や、上野方面が作られています。その後1971年に向島、小松川方面の道路が作られています。ということは、この辺りは未成線(計画はあったが作られていない道路)だらけで、痕跡をたくさん見ることができるわけです。

それを探るためにあわせて覚えていたいことは、首都高速都心環状線は、川の上や、川を埋め立てて作られた高速道路であるということです。そうすると必然的に場所が絞り込まれていきますので、隅田川の方から順番に見ていくこともできますが、ブログらしく個人的なお気に入りの場所の話をしたいと思います。

個人的な見どころ:5号池袋線(JR飯田橋駅付近)

この付近が、一番ダイナミック交差したのではないかと考えられる部分です。

上下左右へと、3次元的に道路がねじり込むジェットコースターのレールのような雰囲気は、首都高速独特の雰囲気といえるでしょう。

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曲がっていますが、三角地帯があり合分流が行える構造になっています。プラレールの分岐レールでカーブを作った状態ともいえるでしょう。


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下から見ると、こんな感じ。

まず気づくのは、無駄に道路の位置が高くないか?ということです。放射状に延びる首都高の路線で、1号上野線岩本町交差点付近での首都高の高さは、こんな感じです(イカの耳という三角地帯も間近に見れる絶景スポット)。

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それと比較すると、およそ倍ほどのたかさ・・・倍ということは下に道も通せるって事なんじゃ?・・・そこで、飯田橋付近の橋脚に注目しましょう。

飯田橋付近の外堀通りから、5号池袋線の橋の下や、その橋脚を見ることができます。

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橋げたに明らかに何かしたそうな突起があり、逆側に目を向けると・・・

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突起がだんだん下がっています。下に道路が通っていたとすれば上下の道を結ぶ分岐線になる訳です。図解すると・・・

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こんな状況が想像できるわけです。

ビルの合間を縫う川の上で、上下の2本の道路を行き来するために連絡線を作って、カーブの途中で合流で、合流車線も短いことが、その土地の狭さを感じるポイントで、設計者も見えない道路を想像しながら図面を引いたことでしょう(この想像が楽しかったりするのです)。

内環状線に関しては、先に例で使った岩本町交差点付近や、両国周辺もそうですし、4号新宿線の赤坂見附付近では地下から無理やりに道路が地上にでてきたりします。これも内環状線計画の名残なのでは・・・と感じる部分です。

そして、赤坂見附からその先は、外堀通りとなる訳ですがその先には、虎ノ門ヒルズ、汐留、芝浦などがある場所になり、浜離宮や、築地などもその先に位置することになります。

クルマに話題を絞らずに考えると、汐留には昔貨物駅があったり、秋葉原も貨物駅、両国も貨物駅・・・国鉄時代で電車貨物輸送が盛んだった時代に、電車からトラックに積み替え、各地域に移動することを考えれば、内環状線が完成していれば、非常に重要な役割を果たしていたのではないかと考えられます(貨物車や特別な目的を持った乗り物が好きなだけ)。

もし完成していて、貨物ターミナルも残っていて、高規格道路がリンクした街づくりを想像すると、その壮大さに少しゾクゾクします(ry。

現在では、貨物駅も無くなり、中央環状線が完成し、内環状線のメリットは無くなりました。だから、「いまさらそんな事知っても価値は無い」と切り捨ててしまうことも簡単です。


しかし、計画とは「当時の環境にあわせて考えられたもの」で、「今と違う未来を想像して作られたもの」です。それは、未成線が実現しなかったもう一つの街並みであり、そんな分岐点にたって現在の街並みに照らし合わせると、いつもの街並みも違って見えるかもしれません。

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