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「勉強しろ」ってどんな意味でつかってます?

テーマは福沢諭吉もびっくりの基本中の基本、「勉強しろ」です。正確には、勉強する意義とは何か、です。

勉強しろのニュアンスが大事

ときに親として、教師として、子どもに「勉強は大事だぞ」と説教することがあるかと思います。その説教って、子どもの側にどのように受け取られているんでしょうか。

実のところ、この言葉は非常に危ういと考えています。

間違った受け取られ方をすると、「学校にいる間は勉強するけれど卒業後は勉強しない人」とか「テストに向けては勉強するけれどテストに出ないところは勉強しない人」を生んでしまいます。

そう誤解されたら最後、無学無能な人間のできあがりです。なぜって、人生のほとんどは学校ではない場所で学んでいるからです。強引に切り分けたとして、人生は6~22才が学校内、22才~100才が学校外。どっちが長いか、どっちが大事かは明らかですよね。学校外で学ばなければ、無学です。

ですので、あらためて勉強はなぜ重要か、じっくり考察をした上で子どもに投げかけましょう。

年内入試は学校の評価重視でもある

大学入試の話から入りますが、年内入試という表現がトレンドです。これはいわゆる推薦入試のことで、指定校推薦を含む学校推薦型選抜と、昔AOと呼ばれていた総合型選抜とを合わせたものです。卒業間際の1~3月ではなく、年内に入試が開始されるためそう呼ばれています。

年内入試の評価を高めたければ、その方法は2つあります。

1つは評定平均を高くすること。評定平均はいわゆる高校入試で内申点と呼ばれる数字のことで、通知表に載っているアレです。学校推薦型はこれが重要です。

もう1つは特別な活動です。総合型では個人的な活動、例えば検定であったりボランティア活動であったり部活動であったり、そうした諸々をアピールすることで評価されます。

逆にいえば、ここで評価されていないものがあります。おわかりですよね。
抜け落ちたのは、受験学力です。つまり昨今の年内入試の隆盛は、これまで長らく続いた受験学力の地位の失墜でもあるのです。

たしかに、大学入試の難しさについては、かねてより批判を受けていました。重箱の隅をつついたような受験問題でより多く正解できることが、その後の社会での活躍に本当につながるのか。怪しいと考える人も多いと思います。

それに比べれば、学校でしっかり勉強してきたことや、授業外でも意欲的に活動し、成果を収めたことを評価した方が、大学入試の制度として相応しいと考えるのも自然に思えます。

しかしながら、ここに落とし穴があります。

私からすると、年内入試の隆盛による受験学力軽視というのが、もう少し大きな意味合いを持ってしまっているように感じられるからです。受験学力というより、学力そのものの軽視に近づいているきらいがある、ということです。そして私はこの学力軽視に警鐘を鳴らしたいわけです。

私は教員ですので、みなさんも仮にそうだったとして、教員側の視点に立ってみましょう。昨今の年内入試が重要とされる学校で、教員がテスト問題を簡単にしたらどうなるでしょうか。

現在の学校の成績は絶対評価ですから、到達目標に達しているならば全員に5をつけても構いません。したがって、到達目標(=テスト問題)を簡単にして、それを多くが乗り越えたといって全体の評定平均を上げることは可能です。そうした場合、生徒の側は実力が伴っていなくとも「学力が高い」という高評価を受けたことになり、大学入試に有利に働きます。保護者も喜びます。教員の側も到達目標を下げた分、教える内容は簡単でよくなるわけですから、まさにwin winだと思うかもしれません。

学力軽視は全体の損失

で、何が問題ですか? 何が起こりましたか?

そうです。これまでよりも少ない勉強時間で高い成績を得られて結果的に大学に合格できるようになった。いいことずくめじゃないかと考える人もいるかもしれませんが、残念なことに、そうではありません。

ここで損をしたのは社会です。

例えば、企業が大卒の人材を雇おうとしたとき、より優秀な人物が欲しいと考えます。その目安になるのが学歴であって、その学歴に見合った学力が身についていなければ企業は損をします。学力が低ければ難しい仕事が任せられないからです。

企業だけが損をするのではなく、その仕事をこなせなかった当人も損をしますし、それらすべてを含んだ集合、すなわち社会も損をします。個々人が得をしようと行動すると結果的に全体が損をする状態(囚人のジレンマ)です。

こんな当たり前のことをクドクドと語るのは、こうした勘違いが昨今、本当に生まれているからです。

例えば保護者で、「指定校推薦っていうやつなら学力が低いウチの子でも良い大学にいけるらしいし、それで入りたい」と考える人は少なくありません。その考え方はお子さんの将来を本当に思うなら間違っていますよ、と保護者を説得することは困難です。だってその人、社会全体のことはともかくウチの子(=個人)は得をすると信じ込んでいますから。

うーん、でもやっぱり……やめたほうがいいです。

後で詳しく述べますが、私はその得をするってのも勘違いだと思います。実際には得しません。

だって経歴に見合った能力がないなら、その組織で活躍できないじゃないですか。英語できないのにTOEIC満点ですと偽って外資系企業に入社したとして、いきなり英語のミーティングに参加できますかって話です。すぐにクビになりますよね。ちょっと考えればわかることだと思うんです。

勉強の意義は昔から変わらないのに……

まあでも、得てしてこういうものでしょう。

別にここ数年に限った話ではなく、勉強とは、生徒や保護者の側から見ると、まるで受験を突破するための手段のように考えてしまいがちです。この立場からすると、受験という関門を突破することが目的ですから、コネがあれば勉強しなくてもよいことになりますし、替え玉で東大に合格できるなら勉強する必要自体まったくありません。

ところが、本当はそうではないんです。なぜなら、勉強の本来の意義は別にあって、大学合格ないし学歴は目的ではないから。

勉強の本来の意義とは、学んで能力を高めることです。高められた能力がその人の人生を豊かにするし、結果的に社会全体に利益をもたらします。

明治維新の後、貴重な労働力であった子どもを無理やり学校なんていう場所に閉じ込めて学ばせたのも、そのまま働かせるよりも、学んで能力を高めてもらった方が結果的に社会的利益をもたらすだろう、そんなふうに当時の政治家が考えたからではないでしょうか。

勉強の意義とは本来そういうものです。当たり前過ぎて恥ずかしくなっちゃうかもしれませんが、ぜひ恥ずかしがらず、大人はそのことを粘り強く世間に訴えるべきだと思います。

経歴が先か能力が先か

実際、社会にでてから能力が試される機会は必ず訪れるというのを示したいので、ここで一つ思考実験をしましょう。(さっきもさらっと触れましたが。)

例えば東大卒の能力がないのに東大を出てしまった人のその後を想像してみます。その人は結果的に不幸になるでしょう。なぜなら世間の見方と自分の実力が釣り合っていないからです。

海外企業と取引をするのに英語を使ったりとか、議事録をまとめたりとか、新規事業の説明をしたりとか、顧客情報のデータベースを作ったりとか、そういう東大卒なら悠々とこなせそうな仕事ができない。課されたタスクがこなせなくて困り、「あいつ東大でてるわりにつかえねえな」とかいわれて傷つく姿が容易に目に浮かびます。実際、学歴って重荷になりえるので、難関大出ているけどそのこと隠しているケースって少なくないと思います。

学歴はただの証明書であって、目的ではないのです。身長2m越えですという身体測定の結果(証明書)をもった身長150cmの人を想像してください。それ、意味ないですよね。それと同じなのに、なぜ学力はだませると思うんでしょうか。

この危うい誤解は、きっちり解いておく必要があります。繰り返しますが、誤解の根本は、勉強の意義を「学歴を手にするための手段」だと考えているところにあります。そうではなくて、勉強の意義は「学力を手にすること」であり、学力が目的、学歴はおまけなのです。

もう一つ、逆側から思考実験をしてみましょう。

ここに大学には進まなかったものの独学で多様な学問を深くまで学んだ人、そうして東大卒と同等の知識技能を身につけた人がいたとします。そういう人って、学歴がないから社会に出ても埋もれると思いますか。私はそう思いません。なぜならその人は、実際に活躍ができるからです。

最初は学歴が足枷となり、大手企業に就職できなかったりするでしょうが、すぐに頭角をあらわして、10年後にはそれなりのポストに就くでしょう。学歴という肩書きそのものは本質ではなく、そこで身につく能力こそが本質です。

「勉強しろよ」は正しいんですが……

そんなこんなで主題に戻ります。大人であるあなたが「勉強しろよ」という言葉を子どもに投げかけるとき、それって実際にはどういうことを意味していますか。

「本質的な学力はどっちでもいいんだが、目先のテストでいい点をとって年内入試で良い大学に行けよ」といった意味合いになっていませんか。もしそうだとすれば、それは間違っています。ここ、気をつけましょうね、というお説教でした。

少しだけ補足です。

勉強の意義は学力を身につけることだというと、一部の方から反発されるかもしれません。昨今、これまでのテストなどで評価されてこなかった、非認知能力と呼ばれているものに注目が集まっています。これは旧来の学力とは異なり、リーダーシップとか忍耐力とか意欲とか計画を立てて遂行する力だとか、こうした測りにくいけれどもたしかにその後の社会で核となる力のことです。

教育界隈では、通常の学力よりこちらを身につけることの方がその後の活躍につながるのだという話をよく目にします。私もその通りだと思います。ですが、それはここでの議論とはあまり関係ありません。話をややこしくしたくないので、私は非認知能力も含めて学力という手垢のついた言葉を使っています。テストで測れるかどうかはともかく、学力が本質的に重要であるというのが私の主張です。

ちなみに

今回の投稿は、私が実際に学校で生徒に向けて発表した文章の焼き直しです。

一般に、noteみたいなSNSに掲載するのは、実社会で吐き出せない内容であることが多くて、身近な場所で公開できないからmessage in a bottle(瓶に手紙をいれて海とかに流してみる)みたいなことすると思うんですが、今回はそうでもないです。完全に現実で公開した内容です。

で、現実の話をします。これまで散々、生徒にホームルームや集会の場でこの話をしたり、学級通信とか学年通信とかにこの話を書いたりしてきたのですが、あまり伝わった気がしません。

びっくりするくらい手応えなかったです。

うーん、伝わらないのはなんでだろうと考えたとき、ふと、これって「生徒がこれまで大人から聞いてきた言葉」が妨害しているからじゃないかと思ったんです。世間の大人が事前に間違ったことを教えてしまったからじゃないか、と。

そこで、あらためて世の大人たちにこの言葉をぶつけることにしました。

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