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紫陽花みたいな傘

 小さい頃、街ゆく人々が乱々に傘を差して歩いていくのを見て、それが紫陽花みたいだと思ったことがある。
 そう思ったっていうことはおそらく高いところから街を見下ろしていたのだと思うけど、それがどこだったかなんて覚えてないし、まあ別にどこでもいいか、人々はビニールのとか赤いのとか紺色のとか花柄のとかじょうごを逆さにしたみたいなユニークな形のとか、それはそれは個性あふれる傘を差しながら、押し合いへし合いどこどこ街を歩いてた。そしてそれを見てまだほんの五、六歳の幼気な少年は紫陽花みたいだと思ったのだった。
 なんでそんな突飛な発想をしたかというと、確かそれくらいの年のときに、親に連れられて鎌倉の長谷寺の紫陽花祭りを見に行ったことがあって、きっとそれを思い出したのだろう、や、そうに違いあるまい。そして今、突飛と言ったけど、今にして思うと別にそんな突飛でもないというか、大人からすると割にありふれた発想なのだよね。それに着想を得た俳句とか短歌って、探したら掃いて捨てるほどあるのだろうね。そういうことを考えると胸の辺りがきゅんと締め付けられるように痛くなって、苦しくなって、辛くなって、もうわんわん声が枯れるまで泣いてしまいたいとか思ったりする。


 ともかくそのときの僕は傘が紫陽花みたいに見えて、その自分の発想力というか、感性の自由さというか、何かそういうものに雷に打たれたみたいな衝撃を受けて、自分はひょっとして凄い発明をしたんじゃないかというたくましい気持ちがむくむくと湧いてきた。エジソンが電気を発明したり、マゼランが地球が丸いのを証明したみたいな、歴史的な進歩が今この瞬間、生まれました、どうです皆さん、凄いでしょう! しかもそれを発見したのはなんとまだ五、六歳の自分で、それって実はとっても珍しいことなんじゃないかとか思って、心の中はもうやんややんやと狂喜乱舞だった、空からひらひらと降ってきた一枚の羽根をうまくキャッチしたみたいな幸せな気持ちだった。
 他の誰かが見つけてしまう前に早くそれをどこかに発表しないと、というはやる気持ちもありながら、や、これは誰にも言わず自分のうちにとどめておいた方がかっこいいんじゃないか、とか色々なことをいっぺんに考えて頭はくるくると回りながら、とうとう誰にも言わないまま今日までやってきました。


 結果的にそれはさっき言った通り月並みな発想以外の何物でもなくて、むしろ誰かに自信ありげに言ってたらそれこそ末代までの恥みたいなことにもなりかねなかったので、心に留めておいて正解だったのかもしれないけど、あのとき大感動したことが実は大したことじゃなかったっていうのは、ちょっと寂しいものがあるよね。あの時の自分は本当に感動していて、今にも駆けだしたいくらいまっすぐに透き通った嬉しさを、どっかんと大爆発させたかったのに、実はそれって大した発見じゃなかったのだとさ。
 じゃああのときの感動は嘘だったのかというとそれも違って、やっぱりあの瞬間、青蘆みたいにしゃんとした純な少年が抱いたあの感動だけは、いつまで経っても色褪せることなく、今だってちゃんとほら、胸の中に残っています。ちゃんとここにあります。
 だからもしタイムスリップして五歳の自分のもとに行ったら、たった今発見した素晴らしい見方っていうのを僕に発表してくれたら、僕は笑いもせず馬鹿にもせずただ黙って君を抱きしめてあげたい。君はいきなり知らない人に抱きしめられて、なんだこいつって怯えるかもしれないけど、そんなの別にいいから僕はただ黙って抱きしめてあげたい、抱きしめてあげればいい。そして自分の胸をとんとんと叩いて、確かに今もここにありますって、伝えてあげればいい。だって君が今ひらめいたその発想っていうのは、世界中の泥棒が束になっても盗めないくらい、きれいで大切で、宝石みたいで貝殻みたいで、かけがえのない感動! なのだから。

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