見出し画像

今日の収穫

表現するということは、自分がすでに知っていることを文字化していく作業ではない。
自分の思いを言葉に変換することによって、逆に言葉自身から教えられることだ。

            武田定光


頭で描いたものを文字化すると、全く違うものであることがしょっちゅうある。

頭で組み立てて、話しだしたら、全くあらぬ方向へ話が行くことも儘ある。

年食ってきて、ただでさえわりぃ滑舌が、拍車をかけて悪くなってきたのでよく噛む。
噛んだ瞬間リズムがくるい、言いたいことが言えなくなり、何を言いたかったのかもわからなくなり、無理やり話をつなげようとして、何を話してんだオレ?ってことなんて当り前になった。

そんな自分の口から出てくる話から、なるほど!とかえ;え;えぇ!とかそんなことが潜在にあったのか。。。なんてことを思い知らされることもある。

文章を書いていても同様のことはある。

昔、自分の話を自分で聞け、と教わった。
で、テープを録れってことかな、と思ったら、違う!と怒られた。
何を言ってんだこのオヤジは?と、思っていた。

なんて頭の悪い、物分りのよくない子でしょう。

ほんと、自分がもうひとりいたら、って話がよくあるが、たぶんわたしはそいつのこと、大っ嫌いであるとおもう。

自分は好きなのよ。
でも、自分と全く同じ第三者は一番キライである自信がある。

脱線。

言葉はどこまでいっても差別だ。

差別・分別・区別をするため、そして、理由をつけるためにある。

だから、人間の思考そのものが差別的である。

そのことを大前提にものを考え、表現しなければならない。

受け止める時も同様だ。

いくらでも悪意として受け止めることはできる。
理由・理屈なくても良い。
嫌いな、許しがたい奴に物言われたら、それが本気で心配をし、こちらのことを思っての一言であろうと、簡単にムカつける。

だから会話は対話を心がけ、相手に届ける言葉をなるべくわかりやすく、きちっとした形にして渡すように、しつこいくらい気をつけるに越したことはない。

今日も会議で、いらん事を言いまくってきた。

自分で聞きながら、

噛むなら言うなよ。
おいおい、何が言いたかったか忘れてんじゃん。
少しは黙ってられないのかよ。
沈黙に耐えられなくなってんじゃ・・・あ!ああぁ〜あ。しゃべること決める前に話し出すなよぉ〜。

そんなツッコミを自身にしながら過ごした1時間40分。

今日話した自らの言葉から学ぶことは皆無。

でも、話しだしてどうにもならなくなるという愚行、その時の心境、いたたまれない気分からは学ばされた。

ともかく

オマエは黙ってろ!←今日の収穫。

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?