見出し画像

青梅街道だって夏だぜ。

二人三脚  鈴木章子

私の思慮分別では
どうにもならぬことは
おまかせしようと
選んでいましたら
みんな みんな
おかげさまとの
二人三脚でした


昨日、いつもながらの御託を並べ、帰宅してから「追記」を載せて編集したものを載せ直したのだが、その後どうしても「追追記」を書きたく成り、「じゃ、明日(今日)書いちゃいましょ」と。

まずは昨日の記事「きりがない」の追記部分はこんなの。

追記

帰宅して、夕食を摂り、いま恒例の水風呂に入っている。
BGMをランダムに流しだした。
で、初っ端、流れてきだのはEGO-WRAPPIN’の「キリがない」
こういう偶然がなんか嬉しい🤣

で、その後にもちょいとした書きたくなっちゃうようなことが起きた。

めちゃくちゃどうでもいい、ただ自分にとってはここに書いて残しておきたい、なんせ、ほら、どんどん物忘れがひどくなってきているから、ちゃんと残しておきたい気分になる、自分にとって大事なこと、他人様にとってはしょうもない事、ゆえに、適当に流しちゃってください。

始めます「追追記」!

それでは終わらなかった昨日の風呂。

話は一昨日の夜にまで遡る。
帰路、車の中でラジオを聴いていると、耳慣れた、というか好きな懐かしいメロディが流れてきた。
大貫妙子の「くすりをたくさん」。
大貫妙子の初期も初期、シュガー・ベイブのあと、ソロのファーストアルバムに入っていた曲じゃなかったかな。
今でも時々聴いているアルバムで、その中でも好きな曲だ。
でも、なんか違う。
「くすりをたくさん よりどりみどり たくさんたくさん」そのあたりのメロディが流れているが、なんか違う。
で、曲紹介「〇〇の【甲州街道はもう夏なのさ】です」
???
RCの「甲州街道はもう秋なのさ」のカバー?
イントロ、曲、まったくそういうことではない。
途中からバックに「くすりをたくさん」が流れ出す。
なんじゃ、この曲は?
調べてみたら、ランタン・パレードというバンド(?)の曲らしい。
「くすりをたくさん」は間違いなく、聞き間違いではなく使っているようだ。
どこまでかはわからないが、RCの「甲州街道はもう秋なのさ」を意識はしているだろうな。
ともかく、音楽に疎い私なのでまったく知らなかったし、でも、RCも大貫も高校、大学とハマっていたし、「甲州街道はもう秋なのさ」も「くすりをたくさん」も好きな曲なので、なんか不思議な気分だった。

で、ようやく話は昨日の入浴時に戻る。

「キリがない」を聴き終え、しばらく水風呂に浸かっているとRCサクセションの「甲州街道はもう秋なのさ」が流れ出す!
なんかもう、すげぇ〜なぁ💓
前日の「甲州街道はもう夏なのさ」事件を思い出す。
気分はアゲアゲだ。

で、上がって、体を洗って、予定通り湯を張った風呂にドボン🥰
(このあたりの私の夏場の入浴ルーティンはこちらを参照にしてください)

湯に浸かりながらまた曲聴いていると2曲めに大貫妙子の「くすりをたくさん」が流れ出す。
なんか、お湯でジーン💓なのか、この今日の曲の巡り合わせでジーン💓なのかがわからないが、ともかくジーーーン😭😭😭
こんなことがあると、明日はいいことが?
いやいや、明日も明後日も関係ないね。
もう、今この時が最高な気分。
明日どうなるか、明後日どうなるかなんて知ったこっちゃない。
なるようにしかならんし、ならんようにはならん。
ともかく、風呂で最高な気分を味わえた、そんな気分最高の夜だった。

これが作為的であったら、自分で最初から曲を選んでたらここまで感動もしなかったろう。
想定外のことが起きたのでここまで喜べる。

でも、とくとく考えると、何一つとして、自分の想定通りに行っている、自分が計画したとおりに進んでいる事象などない。

この瞬間も、わたしの意思に関係なく実は在る。

生死そのものが想定外なのだから、そこに付随して起きている今は、食事を選ぶにしても、音楽を聞くにしても、この記事を打っているにしても、根底にある「いま・ここ・わたし」があってのことで、そのわたしが想定外なのだから、全ては想定外であるともいえる。

その逆に、すべての事象は繋がっている。
「縁」「自然(じねん)」のうちにある。
縁・自然からすれば全ては成るように成っているだけのことであり、想定内というか当たり前である。
そう考えると、「キリがない」「甲州街道はもう秋なのさ」「くすりをたくさん」が流れたことも別に驚くことも、感激することもないことだとも言えてしまう。

どちらにせよ、そこにわたしの意志というものは一切関係がないということは確かなようだ。

だからこそ、自分お思いだの意志だのせせこましいものが働かないからこそ面白いのだろう。

そこに、オレの努力、オレの思い、オレの願い、なんてものを介入させればさせるほどつまらなくなる気がする。

もちろん何かをやり進めているときは「わたしが!」は大事だ。
ただ、その結果であり、途中経過でありを見た際に、「わたし」というものをなるべく取り払ったほうがスリリングな気はする。

これは「わたしのお陰」を取り払うことができないからこその考えでも在る。

先の三曲も、iPhoneに「わたしが曲を取り入れていたお陰、わたしの選曲」てのがどこかにある。
その三曲を知っていた自分を誇りたいわたしもいる。

でも、そいつが表に出てくると、ちっとも面白くない。

そいつを取り払うと、なんてラッキーデーなんだ!になる。

どうせならラッキーデーを過ごそうぜ😆


WGO-WRAPPIN'「キリがない」

RCサクセション「甲州街道はもう秋なのさ」

大貫妙子「くすりをたくさん」

Lantern Parade「甲州街道はもう夏なのさ」


この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?