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昭和なジジイの抜け出せない思考回路から、それでも敢えて言ってみようかな、と。

私の本当の願いは、私自身には分からないほど広くて深いのです。
美味しいものが食べたいとか、みんなと仲良くしたいとか、お金がたくさん欲しいとか、認められたいとか褒められたいとか、そういう願いだったらわかる。
でもそれが私の人生を貫く本当の願いかと言われたら、そうとは言えないでしょう。  
私って存在は、私が知っているよりもずっと深いんです。

             瓜生崇 



現在のスポーツ界のことは殆ど知らない、まったくといっていいほど。
昔は。。。さほど詳しくはない。
けど、ま、一応は野球少年だったし、プロレス少年だったので、昔は、なんとなく気にしてはいた。

プロ野球では、当時はいろいろな科学的なトレーニング方法や理論が取り入れられだして、それに伴い、優秀なトレーナーや栄養士や機器が取り入れだされたころ。
まだ、セ・リーグとパ・リーグでは年収もファン数も雲泥の差があり、そんな中でもジャイアンツと他球団ではとんでもな差があったころ。
ジャイアンツでは、どんどん新しいトレーニング方法が取り入れられていく。
ところが親会社がなく、地域密着球団でやっている広島は、そんな金もない。
それが理由ではなかったと記憶はしているけど。
でも、若干は、それもあったんじゃないかな。
で、広島カープの練習は、とにかくグラウンドを走る。
ひたすら走らされる。
そんな感じだったらしい。
当時、今までの、ひたすら走ったり、うさぎやら亀やら、そんなことをするのは膝を壊すことに繋がり、選手生命を縮めることにもなる、ということで、走り込みをする球団はどんどん減っていっていた。

ところが、各球団で育つ選手よりも、広島で育った選手のほうが活躍をし、トレードで、広島の若手がどんどん他球団、特にジャイアンツに移っていった。

で、走り込みはやっぱ大事、と、見直された、ということが昔あった。

前にも書いたかもだが、うちの中学の野球部は、皆からマラソン部と言われるくらい、野球の練習より公園を走るほうが多かった(グラウンドが週2〜3回しか使えないため)。
で、野球はさほど強くなかったが、チームプレーというか連携プレーができないので弱かったが、足の早いやつは大勢いた。
区の駅伝大会で優勝(陸上部1人以外は全部野球部)したり、東京都の3000Mで優勝したり(主将をしていたやつ)、と、それくらい走り込んでいた。
で、卒業して、それぞれの高校へ。
まだ、都立高校は基本スポーツは私立高校に比べると格段弱かった時代だが、高校でも野球を続けた仲間たちの多くは、それまでやったことがなかったのにピッチャーに転向、最終的にエースになった奴も何人かいた。
その理由は、皆、なんと言っても足腰がしっかりしているということだったらしい。
そんな話を高校生の時に聞いて、走り込みって無駄じゃなかったんだ、って、帰宅部で、もう関係のない自分も嬉しく思ったのを覚えている。

先日、プロレスリング・ノアという団体で制定しているGHC世界ヘビー級チャンピオンに58才の武藤敬司が就いた。
つまり、勝っちゃったわけだ。
武藤がプロレスラーになった頃は、いまでは考えられないくらい非科学的なトレーニングをどこでもしていた。
武藤自身も言っていたが、ヒンズースクワットを一日何千本もやらされりゃ、みんなん、膝、壊すの当り前だろ、と。
で、案の定、当時のほとんどのプロレスラーは膝がボロボロだった。
でも、あのひたすらなんの意味があるのかわからん練習をさせられて、それを乗りこえてきたお陰で、半端ない精神力が付いた、とも誰だったかが言っていた。
猪木だったか、馬場だったか、三沢だったか、小橋だったか、忘れたけど。
でもでも、おすすめはしない、とも言っていた。

ま、この広島の例も、プロレスの例も、とてつもない人数の中から、残れた人のことなので、本当に稀有なことなのだろうが。

なにがいいたいかというと、その人その人に合ったやり方があり、接し方ってもんがあるんだろう。

そんなことは、皆、わかってはいる。

でも、みんな同じであるべきだ、という考えにどうしても苛まれる。

スポーツの場合はだいぶそういうことはなくなってきているようだが、社会では、皆が皆同じだけ働き、皆が皆同じだけ成長し、皆が皆同じだけの給与をもらう。
それが平等だ、という、ありえない幻想に、どうしても傾いてしまう時がある。

それがあまりにも不平等な、格差がある、差別的な社会であればあるほど、そういう幻想に苛まれてしまいがちだ。

いまの日本が気を付けなければならない、勘違いした平等論でもある。

ある仕事を、3時間かかる人間もいれば、1時間で終えられる人間もいる。
出来上がりが同じ時もあれば、3時間掛けた方のやつが1時間掛けた方よりも優秀な時もあれば、逆に1時間のほうが優秀な時もある。
時間の掛かり方にも理由がある。

3時間掛けないと仕上げられない人に、無理やり1時間で仕上げさせ、結局はどうにもならないものしか出来上げられず、責められ、自責もあり、耐えきれなくなる、また、その仕事をきちっとこなせないことで、その仕事での成長もできない。
それなら、就業時間が過ぎても、その人物が望むのなら続けさせてあげればいいのにな、そんなふうに思う。

1時間で終わる人間が、ちゃんとその仕事を問題なく終えたのであれば、それでその人物が帰りたいというのであれば、修業時間前であろうと、なにもないのであれば帰らせればいい。

AさんとBさんに同じ仕事を3日間で仕上げてくれと依頼しました。
Aさんは「〇〇」という仕事をSランクの仕上がりで3日掛けて終わらせました。
Bさんは同じ仕事を同じくSランクの仕上がりで1日で終え、翌日休んで、翌々日は後片付やみんなの昼飯を買い出しにいってくれました。

AさんとBさんへの謝礼はどうしましょう?

同じでいい?
それが平等?
Bさんのほうが頼んだこと以外もやってくれたので多少上?
それが平等?
3日間ちゃんと休まず出てきていたAさんの方び多めに支払う?
それが平等?

わからないよね、平等なんて。

その都度、悩まなきゃんらないもんだと思う。

人を見て、その人に見合ったものは何なのかを悩むことで、その人と対等になれるのじゃないかな、少しは。
そこから、その場の平等を見出すようにするくらいしかできないと思う。

個人競技の選手がトレーナーやコーチを変えることがあるけど、それは、そのトレーナーやコーチがダメなわけではなく(人間関係的にNGということは除いてね)、次のステップに行く場合にとか、年齢的にとか、体力的にとか、合わないから変えるんだと思う。
今の自分に合った人間に安心して任せたいということなのだろう。

反対に、教える側はその人を見て、その人に合った方法を取る必要がある。

それが、一般的には「ありえない!いまどき!」というような指導方法であるとしても、その人に合った、その人が一番伸びる、その人の持っているものを一番引き出せる方法であれば、周りがごちゃごちゃ言うことではなく、時代的とか、常識的、なんてコトバでくくることでもないと思う。

もちろん、コトバや暴力で脅迫し、指導者という立場に胡座をかいて、勘違いしているような奴は論外だが。

なんでこんなことをいきなり思ったかっていうと、ここのところたまたま時代物のドラマや映画のワンシーンを観て、武士、侍役の青年が走っているシーンを観て、なんかシックリ来ねぇな、と感じ、なんでだろと。

あ!走り方がメチャクチャじゃん。

腕、おもいっきし振っちゃってるし、袴も着物の裾もたくし上げもしていないし、腰が高いし、だいたいナンバになってないもんなぁ。

そんなことを思って、これ、黒澤明が監督だったら怒鳴り散らされて、下手したら役降ろされちゃうだろうな、なんて勝手に想像した。

黒澤みたいに、そいつがまともに走れるようになるまで走らせる。
雨が降るまでひたすら待たせる。
いい雲が出るまで、夕焼けの色がいい感じになるまで、いい音ができるまで、そんな自分の細かい細かいこだわりに、助監督を始めとするスタッフを突き合わせまくるのももうできないのかなぁ?

そんな事をふと考えた。

そういえば、石橋貴明が「情熱大陸」の中で

いまテレビでも働き方改革かなんか知らないけど、ADやAPを真っ先に時間になったら帰らせて、会社でひたすら寝泊まりして番組を作る、なんてことはさせられない、ってことになっているらしいけど、それでいい人はいいけど、少しでも早く仕事を覚えて、ディレクタやプロデューサーになって、自分の作りたい番組を一日でも早く作りたい!そんなやつにまで、やらせない、頑張らせない、チャンスを与えないっていうのはなんか違う気がすんだよね。

こんなようなことを言っていた。

これも古い考え方なんだろうけどね。

と、そんなふうな自重も含めて。

古いのかなぁ、これも。
古いで済ませていいのかなぁ。

正直、そんな風に思ってしまう。

広島のランニングではないけど、否定はいいし、そこから新しいやり方を開拓していくのはいいけど、その新しさが正しいわけでもなく、実は否定した中にもこっちのほうがやっぱいい、もあると思う。
だから、石橋の考え方は、あながち間違ってはないと思う。

そのためかどうかはわからないが、確実に、ドラマなんか観ればよく分かるが、できが悪すぎる。
台本や演出や時代考証、社会考証、人間考証の甘さもあるが、編集や音の入れ方が酷いなこれ、ってのが目立つ。

昭和のジジイのボヤキが止まらない😅

うちらの時代の在り方が良いとは決して言えない。
事務職していた時に思ったけど、本当に無駄な、必要のない残業をする人間が多くいた。
出された書類を見ると、唖然とすることがよくあった。
こんなクソみたいな報告書を作るために残業してんのか?5分掛からずに作れるだろ!
ってレベルのものを、時間を稼ぐためにダラダラと、テニヲハを弄ったり、漢字にしたり、ひらがなに戻したりで潰しているようなやつがいた。

そんな無駄をする、ただ残業代欲しさに、飲み屋がはじまるまでの時間調整で、そんなのがあたりまえにあった。

そうでない人も、どこで仕事に段落をつければ良いのかがわからない、そんな人もいた。
だから仕事が終えられない。
ひとつ終えたら、そこで今日は終わり。まだ就業時間まで1時間あるな、じゃ、コーヒーでも飲みながらゆっくりと過ごしましょう、とできない。
1時間あるので、なんか一生懸命に仕事を探して始めちゃう。
1時間で終わるわけもなく、結局は残業。
で、見つけた仕事を会議で発表、「いまこれこれをやりだしました」と。
その場しのぎで見つけた仕事、基本は必要ない。
却下。
それはいいので、予てから必要だろうと言われていたこちらをやって、となる。

こんな状態だったので、残業は基本、無し、でいいと思うし、上司より先に帰っちゃいけない風をなくすのは大変良いことだと思う。

でもね、いまのやり方でいい、で終えないほうが良いと思う。

常に、どうしたらより良くなるかなぁ、って、探っていくことが大事だと思う。

その時に、切り捨てた昔のやり方も時には参考にして。
そこには失敗例もあれば、反面教師例もあれると思う。
下手したら、ここだけは美味しそうだから復活してみよう、もあるかもしれない。

構造というのは必ず欠点があるし、誰かにとっては耐え難く辛いものであることもある。
だからこそ、構造は柔軟であることが大事だ。

中心さえブレなければ、外見が変わろうが、なんともない。

その中心、旨・棟・宗となるものがなんなのかをいつも対等なところで話し合っていくことが大事だ。

で、今日の言葉との関連。

単純。

願いじゃないけど、本当に途中で、何がいいたかったかが、わかんなくなった😅


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