一寸の虫にも五分の魂
人間に関心があることは、ひたすら「人間的なこと」であって、それ以上ではない。
しかし、いのちを平等にみる視線からは、確かに言われてみれば、人間が見落としていた大切なものに気付かせてくれる。
そして、何とも、私に恥ずかしい思いをさせてくれる。
武田定光
もう10年以上前の話だが、ある会議に遅れてきた人が語ってくれた。
その日の会議では、10名参加のうち半数くらいの方が遅れてこられた。
勘の言い方ならもうお気づきかもしれないが、電車の遅延による。
そして、その人も遅れたのだが、
「すみません、遅くなっちゃって」
「電車止まっちゃっていたみたいですね。まだ、2人(3人だったかな?)来ていませんから。大変でしたね。揃うまで始めませんので、少しゆっくりなさっていてください」と、その会議を仕切る人が言う。
「いやさぁ、乗った瞬間、〇〇で事故があったからしばらくお待ち下さい、だろ。いやぁ、そういう時って人間性が出るなぁ。恥ずかしいというか、情けなかったよ自分が。瞬間、会議に遅れちゃうだろ!ふざけんな、何やってんだよ!、って思っちゃったんだよ」
「いや、普通そう思うんじゃないですか?」
「でもな、事故だぞ。もしかしたら命を落とされた方がいるかも知れないんだぞ。よくても大怪我だろ。電車の事故だもん。それなのに、会議のほうが大事なんだよ、その瞬間は。頭回らないんだよ。その事故にあった人や、その人の家族や友人のことんなんか。自分の都合が優先される。いま電車の中で、ずっと自分の浅ましさに嫌気さして、情けなくてさ・・・。別に、悪いけどさ、こんな会議に出られなくてもいいんだよ。だって、皆いるしさ、オレの他に。でもその事故にあった人は、その人しかいないんだよな・・・。」
その話を聞いていて、自分の浅ましい、卑しさに情けなく思わされた。
そう言われて、気づきた。
おれも同じだな、何やってんだよ!って思ってしまう。
いや、オレは、そこに傷ついた人がいるというところまで、はたして思いが寄せられるだろうか。。。それはそうなってみないとわからないことだけど、そう言われてみて気づくようでは、何やってんだよ!、のままだったかも知れない。
そんなことがあった。
それ以来、電車が止まったり、事故渋滞に合うと、そのことを思うように成った。
ただね、情けない話だけど、やはり最初に湧く感情は、さすがに「何やってんだよ!ふざけんなよ!」はなくなったが、「マジか。まいったなぁ〜。。。」であることが多い気がする。
これからの季節、車を走らせていると、特に高速道路を使うと、多くの虫を無意識に、無造作に、そこに命のかけらも感じることなく、殺戮していく。
そして思うのが、「うわ!すんげぇ汚れちまった。虫の汚れ、雨降ったくらいじゃ取れねぇんだよなぁ〜」って感じだ。
まったく申し訳ないなどと思っていない。
こういう話をしているときだけだ、愁傷なふりしているのは。
「本日、東京都在住の僧侶が高速道路を走行中に、〇〇虫を300匹跳ね殺し、そのままその場を車で逃げ去りました」なんて、ニュースにも成らない。
それくらい、わたしは偉そうにいのちの平等だの大事だの人権だの言ってはいるが、本当のところの命の大事には未だに気づけず、痛みを覚えることすらもできていない。
だからこそなんだな、命は一切平等だ!って、しつこくいうのは。
だって、そんなふうに思えていないやつは、それをつねに自らに言い聞かせていないと、何しでかすかわからない。
「今日の言葉」は、武田定光さんが、まど・みちおさんの「火事」という詩を通じて教えられたことを書いた文章の一節だ。
「火 事」 まど・みちお
きのうの火事が出ているわ
と ママが声に出して新聞を読んだ
六日朝五時 中町3の6
会社員吉田一夫さん宅から出火
二かいだて 一むね ぜんしょう
さいわい死人は出なかったが
一夫さんの長男 小学一年生の
はじめ君が逃げおくれて軽いけが
原因は目下取しらべ中
日本に新聞ができてから なん億回
こんな火事の記事が出たのだろう
世界中では なん兆回かもしれない
そして一回でも
出たことが あるのだろうか
その火事で死んだネズミたちのことが…
そのネズミについて暮らしていた
ノミの親子の事が…
いちいちの命に気づくことはできないし、それが必要だ!と声高にいう気もない。
ただ、こうしたものの捉え方は大事だし、いまの日本の社会、特に昨今の分断された社会にいると、必要な視線だと思う。
想像力というものがあまりにも枯渇しているのではないか。
いよいよ年齢とともに枯れていくのだから、いま、想像力を磨け。
そんなふうに自身を鼓舞することくらいしかできていないけど。
これしかできないので、これくらいは大事にしていこうと思う。
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