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昨日の法律じゃ悪人、今日の法律じゃ善人。

立場でころころ変わるようなものは正義感でも何でもない。
ただの好き嫌いであり、卑俗な価値観であり、気紛れな懲罰意識に過ぎない。
正義の名を借りた嗜虐欲と言ってもいい。

            中山七里


立場、場所、時間で変わる正義。

人間の正義ってのはみんなそうだ。

こうした話をしてると、いつも映画「アンタッチャブル」(1987年版)のラストシーンを思い出す。
禁酒法下でのエリオット・ネスとアル・カポネの鬩ぎ合い。
そして禁酒法が廃止される。

法律変わるだけで、正義も変わる。

戦中、戦地で人殺したら英雄。
戦争が終わって戻ると、あいつは戦地で人を殺してきたと省かれる。

チャールズ・チャップリンの映画「殺人狂時代」のセリフも思い出す。

「一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄になる」
One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify.

極論ぽいが、わたしの日常でも正義はコロコロ変わる。
ひどい時はその日のご機嫌で変わってしまう。
機嫌のいい日は許せたことが、機嫌のよろしくない日はわたしの正義が許すことを許さない。

正義でもなんでもない。

人間には「義」はない、てのが仏教の立ち位置だ。

だから、コロコロ変わるのは当り前だ。

我々の、日常生活の良し悪しの基準となりがちなのは、どうしても法律ってやつになる。
その法律を、好き勝手に、思い通りに勝手に変えるのに躍起なのが政治家って奴らだ。
政治家の暴走を止める事ができる唯一の法律が憲法ってもんだ。
でも、その憲法でさえ、最近の政治家のトップ、政府は意味を無理やり付けて悪法化したり、憲法を改正してコロナ禍を乗り切る、コロナ禍を乗り切るには憲法改正が必須条件だと与太を飛ばして、国民投票法改正案なんてもんを無理やり出してきた。

考えられない、考えたくない、日本の大人たちは、ヘラヘラスルーしているだけ。

悪法が通れば、それはもう悪法ではなく、正義になってしまう、社会的に。
階級社会にして差別を扇動するような法律が通ってしまったとする。
差別はよろしくない!と立ち上がったら、そいつは悪となる。
社会生活を乱す極悪人とされる。

そんなもんだ。

だから、どんな法律であろうが、それを変えるといううときに、注視されているという意識をもたせる、見てんぞ!気にしてんぞ!という態度をこちらが見せていくことは大事だ。

じゃないと、政治家だけでなく、人間はすぐに自らの正義に溺れる。
正義に酔う。
何も見えなくなる、ひとの涙も。

互いに監視しろっていうのではない。

互いにもう少し興味を持とうってことだ。

人が興味を持っていることを耳をふさがずに、目を覆わずに、心を閉ざさずに、見聞きする機会があるのであれば少しは関わろうってことだ。

人と触れ合うと、
ただの好き嫌い・卑俗な価値観・気紛れな懲罰意識・正義の名を借りた嗜虐欲、ってもんが垣間見えて、赤面くらいできることがある。

「わたしの正義」ほど危険でいい加減なものはない。


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