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無色にはさせられない。

人を評価することなく受け入れるには、まず自分は人を色づけして見ていることに気付くことから始まります。 

          西原祐治

評価をしない世界

評価のない社会

自分がしたことを誰も評価してくれないとやる気も出ないし、元気も出ないし、虚しく寂しく感じてしまう、

その評価が悪いものであったとしても、無評価よりは良かったりすることもある。

悪評でもいいから無反応はやめてくれと思ってしまう。

そんなことはないだろうか。

評価というのは人間として生きている以上は必要だ。
ランキングも必要だ。

ただ高い評価やランキングがその人ではない。

仕事ができなくて、金も持っていなくて、時間にだらしない。
そういう人の中にも、とてつもなくいい人もいれば、とんでもない悪党もいる。
ごくごく普通の目立たない人もいる。

金も力もあって、仕事もできて、見た目も素晴らしく整っている。
そういう人の中にも、とてつもなくいい人もいれば、とんでもない悪党もいる。
ごくごく普通の目立たない人もいる。

ま、社会の評価、他人の評価なんてそんなもんだし、自分が評価する側の立場での判断なんなんていい加減なもんだ。

それでいいと思う。

その評価に意味をもたせたり、理由を付けたりいちいちしなければ、それはそれでいい。

理由も意味もない。
でもいいと思えた。

それだけで十分だ、理由を聞かれて、答えるとしたら。

評価のない社会とは、個を個として尊ぶ社会を指している。
無視をするのではない。
何をしていようが、していまいが、互いに存在を認め合う社会だ。

人を判断する時に、そこにその人の持ち物が判断材料となっているということは、間違いなく色眼鏡でその人を見ているということだ。

見た目も、性別も、年齢も、実はそんな色眼鏡によって見えてくるものでしかない。

でも、人間である以上は裸眼にはなれないんだよ。

たまに、ごくたまに、眼鏡の隙間から外を覗いたり、色眼鏡がなんの意味も持たない場所に出くわした際に、すこしだけ原風景を見ることができる。

見えてきた原風景は脳裏に収めておきたい。

いや、原風景よりも、それを見ることができた自分のその時の感情を覚えておきたい。

今日も、だれかれかまわず、眼の前の人を評価して、勝手に色付けして、勝手に仕分けして、その人の可能性を含めて、人間性までもこじんまりと固定化して、その人そのものを見ることができていない。

雨がけっこう降ってきたな。

外は肌寒い。

雨の日に外で佇んでいる人を見ると、なんだか悲しいことがあるのだろうな、と勝手に思ってしまう。
これ、昔から。
大きなお世話だ!、と、もしも聞こえたら言われるだろうな。

自分には、こういう人の色づけ方もあるな、と気づいた。

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