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おおそらごとのかたちなり

人間の悲哀とは、自己の範囲を知ることである。
生れ落ちた時、私は何も知らなかつた。
その時何の悲しみがあつたらう。
経験と教育とは日一日と私の、自己及自己以外の事物に関する知識を広くし、深くした。
自己の範囲といふものは、知れば知る程小さくなつてゆく、動きのとれぬものになつてゆく。  
常に何らかの努力をせねばならぬ人間の運命を、私はしみじみと痛ましく思ふ。

            石川啄木


対外的に、社会性に照らし合わせて自己を見つめる時、成長期は一つ一つを手中にしいよいよ自分お可能性に酔えることもあるが、成長期を過ぎてくると自己の限界にぶち当たる。

自然と相対する時、自然界においての自己の小ささに遭遇し、自らの無力さを思い知らされる。

価値判断の基準を「人間基準」で考えれば考えるほど、自己の範囲というものは狭く窮屈なものとなる。

じゃ、それほどわたしというものは、存在は矮小でつまらない役の立たないものなのか。

いや、それは違う。

人間基準・社会基準という、その時代時代場所場所の人間が作り出した価値基準こそが、矮小で偏狭でつまらないものなのだ。
無駄とは言わない。それがなければ我々人間はなにもできないのだから、いかにつまらない価値基準であろうが、その基準も大切にする必要はある。
ただ、つまらなものなのだから、どんどんバージョンアップ、アップデートしちゃっていいし、そうするべきだろう。

で、価値基準を、自分を矮小でつまらないものと教えてくれるもの、自然とか、ほんとうのところとか、成るように成り成ならぬようには成らないという当たり前に置くと、自分が実は矮小でもなく、つまらなくもなく、役立つ役立たない関係なく、存在そのものが欠かせない大事であることに気付かされる。

わたしひとりがここにいなければ、この世界はまったく今とは違ったものに成る。

自分の家族・友人・恋人・仕事仲間、そうした人を思い浮かべてみよう。
そのうちの誰か一人でもいなければ、まったく「いま・ここ」の捉え方は違ってくるはずだ。
まったく違う「いま・ここ」になるはずだ。

それだけ、「ある」ということは素晴らしくすごいことなんだ。

7〜8年前から、まったく音信が途絶えていた大学時代の友人たちと会うようになった。

最初は、大学の時、毎日つるんでいたヤロー共10人ほどで集まった。
ともかく、皆いてくれただけで嬉しかった。
仕事がうまくいってようがなかろうが、体調が悪かろうが良かろうが、そんなもんはどうでもいい、二の次だ。
いてくれるだけ、会えただけ、それだけ、大事なのは。

次は、大学時代のサークルの仲間。
コイツラもいっしょ。
いてくれた、会えた、もうそれ以上は望む気はない。

それくらい存在はでかい。

たとえ、わたしにとって大事な人間が、他者からくそみそに言われていようが、社会的に勝ち組だろうが負け組だろうが、金があろうなかろうが、知ったこっちゃない。

大事なのは、誰にとってどうかではなく、わたしにとって大事という、欠かせない存在であるという一点だけだ。

そして、その大事で欠かせない人間は誰よりも自分自身だということ。

それを感じるには、教えてもらうには、「VS自然」「VS歴史」ではなく、自然・歴史の一部であるわたし、自然・歴史に欠かせないわたしを見つめることだと思う。

頭で覚える知識は生活をしていく上で欠かせないが、わたしの存在意義とはなんら関係がない。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな 
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは 
おおそらごとのかたちなり

          親 鸞

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