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ミミガー豆腐

私たちは常日ごろ、いつも状況に流され、自分自身が行方不明になっているような状態で生きています。
自我に生きる今日の私は、きちんと現実を生きたことがない。
ただ自我意識(思い・考え)に生きるばかり。
ものごとが思いのままになるとかならぬとか、そんなことばかり考えて明け暮れているありさまです。

            池田勇諦


朝から機関誌(寺報)を作っていた。

「作る?」と思わえる方もいるかな?

うちでは、ずっと、印刷屋さんに頼まず、よく事務所で使っている印刷機械を使って、自分で印刷している。
封筒の印刷なんかも。

印刷屋に頼むほどの予算がないんだなぁ😅
と、同時に、「手作り感ハンパなくていい!」という声(ごく一部)に推されちゃう。
素直に「そ〜ぉ😆」と受け入れちゃう。
その結果、原稿はもちろん、印刷、封入、全部やっているのよ。

ま、折ったり、封入する作業は門徒さん(檀家さん・信者さんのことを浄土真宗ではこういう)にやってもらっちゃっているんですけどねぇ〜、実は😅

で、切羽詰まらないと文章なんて書けるわけもなく、この「note」にしても毎日午後2時を過ぎるのはそれなりに切羽詰まってからだから。今日、朝から原稿を書き上げる作業に入った。

今日の午前中には原稿作って、午後から印刷せにゃ、というのは先週には意識し自己確認をしていたのだが、月曜にも、昨日の朝にも確認をしたのだが、まったく何を書いていいものやら、どう誤魔化せばいいのやらすらも沸かず、今朝になってしまった。
で、無事(?)、なんとか原稿もでき、印刷までし仕上げることができた。

それにしても言葉が出てこなくなったもんだと、最近、身に沁みるように思う。

「あれ?こういうときに使う、なんだっけ、あの言葉・・・あれ???」

こんなことしょっちゅうだ。

たとえば、「支離滅裂」という言葉を使いたいと思ったとき、それに近い言葉や同義語みたいのもんは出てくるのだが、「支離滅裂」が出てこない、どこをどうしても。
意味不明、理解不能、めちゃくちゃ、ぐちゃぐちゃ、そんな言葉を使って表せないでもないのだが、一旦、なんだかわからなくなっちゃたけど「〇〇〇〇」で表したい、と思うと、だめなんだよね、物分りが鈍いくせに頭が固いくて頑固になるのも老化の症状の一つのようだ。
で、「支離滅裂」を探しているうちに、「支離滅裂」を使って何を書き表して、どう展開させようとしていたのかを忘れてしまい、結果、「支離滅裂」は必要なくなっていたりすることも儘ある。

今日は、わりと、恙なくとは言えないが、湧いた言葉が出てきたので助かった。

テレビなんかを観ていて、若いタレントさんが、ある言葉をとんでもない使い方というか、意味とまったく違う意味で使ったり、答えたりしているのを観て笑ってしまったりするのだが、そういう言葉が間違った意味でも出てくるだけでも偉いなぁ〜、って思う。

以前、クイズだったのかなんだったのか知らないが、たまたま回したチャンネル・・・

こういう場合、今どきはなんていうのかな?選んだチャンネル?選んだわけじゃないし。。。無造作にそのチャンネルボタンを押して観てしまったわけだが。。。昔は、ガチャガチャ当たり前に回してたからね。1チャンネルから4チャンネルに移動するのに、かならず2、3チャンネルを一瞬でも経由しないわけにはいかなかったから。

で、たまたまのそのチャンネルで、司会者が若いタレントさんに
「こういう豆腐のことをなんというか」
みたいに聞いて、その質問に一人のタレントさんが
「バジドウフ?」と答えているのをちょうど観てしまった。

うかつにも笑ってしまい、こいつすごいな、と思ったのを覚えている。
意味なんかわからないけど「馬耳東風」という言葉を知っていて、使うこともなく、意味もわからず、それでもどこかにしまい込んでおいて、質問された瞬間に、それを奥の奥のその奥の引き出しから引きずり出して、響きだけで「バジドウフ」と答えられる。
意味なんかどうでもいいんだよね。

何を聞こうとしているのか、それに対して精一杯答えてみる。
その答えで何を言おうとしたのか受け止める。
「それ、馬耳東風のことかな?」
もちろん、テレビだから笑いに変えてしまうのだが、中には「ばかじゃねぇ」とかいう周りの出演者もいるのだろうが、本気で「バカ」と思っている人は少ないだろうな、おそらくはおおかたの共演者は「よくぞその言葉を導き出した」「やられた」「いいねぇ」くらいに思っていたと思う。
本気で「バカ」とそのタレントさんを思った人間がいたとしたら、自分が知っているという知識自慢に酔って、上辺の知識=賢さと思っている勘違い人間でしかない。

言葉は、その場、その場で繋がれる、それがもとの意味と話がずれてしまっていたとしても、互いがわかり合えるきっかけとなれば、言葉は十分にその役割を果たしたことになるだろう。

「バジドウフ」で、司会者との距離を埋めれただろうし、互いに問いを持ちあえて、それが周りにも連鎖したのだったら、バジドウフ上等、だ。

ま、こんな事を考えながら機関誌をつくっていたわけだが。

毎日こんなゴンタクレを書き散らかしていて、今朝は機関誌の原稿上でおなじことをしながら、なんでこんなことを敢えてしているのでしょうかねぇ、愚にも着かぬことを書いていて何になるんだろ?なんて考えてみたりもした。
少なくとも、文才がない、ものごとを筋道立てて考えられない、理路整然無理、支離滅裂上等、そんなんだな、というのはこういうことをすればするほど明確になってくるので、己に酔うことがまったくできなくなってくるので、それはいいことなのかなとは思う。

結局さぁ、あれこれやったり、やらかしたり、考えたり、悩んだり、落ち込んだり、浮かれたり、そんなことをしながら、「自分探し」じゃなくて、「行方不明の自分」を、「浮遊している自分」を、「徘徊中の自分」を自覚したいんだな。

バジドウフとか打っていたら、久々にミミガーが食べたくなった。
馬耳豆腐からミミガー(豚耳)の煮こごりが連想されてしまった昼下がり。

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