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加害者

ア ラ(粗)  鈴木章子

相手のアラが気になって
仕方なくなったとき
私は黙して
私の内に
視点をもどす
何が
それを気にしているのか

そして
私の同質のアラが
そのアラを気にしていることに
気づかされる
煩悩具足の身
他人の粗によって
気づかされる

他人の粗が
仏知に変わる妙味

人の振り見て我が振り直せ

直らない。

直そうとするけど
結局は直らないのが分かる。

だから
直せないまでも人の振りみたら、
あ、おれもだ、と言い聞かせる。

殺人や事故や
耳にして、
犯罪に憤りは当然感じる
犯人であったり、加害者に憤りは感じる。

そこに
憤りだけで
被害者でもないくせに
被害者の気持ちがわかる風で
いい人ぶって、ものを言っていれば、自分は気持ちがいいかもしれないが、なんもそこからは生まれない。

以前、映画監督の森達也さんが指摘していた。

ある殺人事件で
容疑者(判決前)に死刑判決がくだされた。
死刑制度の賛否はここでは一旦おいておく。
おいておくがわたしは反対だ。
その、判決がおりたときの指摘。
被害者家族を支援して、支えていた人々が被害者遺族を囲んでいたという。
多くの人は「やった!」とばかり、笑顔だったという。
でも、被害者遺族には笑顔はない。あろうはずもない。
被害者遺族にとっては、なにも解決していない。
そんな苦しみは他人にわかるはずがない。
近くで支えていた、そういう方々ですら分かれない。
それが、ちょっとテレビや新聞やネットで事件を知っただけで、被害者や被害者家族に感情移入して、いかにも自分がわかっている風に思うのは、非情に短絡的だ。
分かりたい、分かろうとするまではいい。
ただ、しょせんは分かれない、という大前提を持つことだ。

で、その時に加害者にも目を向けることも大事だ。

そこには、加害者の中には自分がいる。
自分の中に、加害者がいる。
縁さえ整えば、自分がアイツになっている、
そこに目を向けてみる。

相模原の障害者施設殺傷事件を知った時、犯人の供述を聞いた時、素直に「このガキはろくでもない!許せない!」と、先ずは感じた。
で、自分の内を見つめてみた。
取り巻く環境、今の社会を見つめてみた。
自分の中に、彼はいた。
温度差はあるにしても、その温度の差がなくなれば、自分も彼になっても全くおかしくない。
できる人間を大事にし、できない人間を切り捨てようとする。
自分に都合のいいヤツはそばに置くが、都合のわるいヤツは遠ざける。
仕事でも、付き合いでも。
社会においても、政治においても、人間の存在意義を「生産性」なんてもんで差別する。
それがおかしいとも思わないような政治家が普通に国民に選ばれている。
最近も東京の区議がLGBTQに絡めてそういう事を言った。
その前には衆議院議員がLGBTQの人々を「生産性がない」というトンデモ発言をした。
それでも、両者が所属している党は、叱った、というだけで、実質、なんのお咎めもなく議員を続けさせている。
生産性で人間の価値を決めることに賛成をしている証だ。
表に出た一例でしかない。
日本の社会は確実に人をモノとしか思わない社会へとなっている。
こうして、文句を言っている自分も、気がつくと、その流れと風にやられて、できるできないで人の価値を測ろうとしているのではないかと思わされる。
気がつければいい。
でも、気が付かなければ、それが当たり前になってしまえば、いつでも自分の中の「相模原障害者施設殺傷事件の犯人」が顔を出すやもしれない。

いちいち、すべての事象にそこまで考えるのは無理にしても、特に腹立たしい事件や事象が引っかかった時、「あのガキャ許せん!」なんて気持ちでtweetでもしそうな時こそ、一度内省することを心掛けている。

それは、やったことに、やらかした人間に対してとやかくではない。
許すも許さないもない。
そんな権限も権利もわたしにはない。
やったことはひどいことであれば、それは素直に痛み、憎むし、怒る。
加害者に対してはなんら同情もないし、分かる気もない。
ただ、自分の中の「加害者」を見つけ出すのに利用しているだけだ。
そして、自分自信に言い聞かせる「気をつけろ。気をつけていても条件が整えばやってしまうのが犯罪なんだから、なおのこと気をつけろ」と。
それは、相模原の事件だけではなく、先に挙げた議員の時も、最近だと池袋の母子が轢き殺された事故の裁判での加害者の証言を聞いた時にも、自分の中にほんの一部であるかもしれないが、確実に彼らがいるなと、情けなくとも感じ、薄ら寒く感じている。



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