関係性が作り出すもの
わたしたちは、常識や通念に従って生活しています。
その生活の仕様が差別を生むのですから、差別を良しとしないのであれば生活そのものを、ひとりの人の苦しみという現実から問い直す必要があるのでしょう。
物による平等ではなく、いのちの尊厳による平等が希求されているのです。
祖父江文宏
長いこと生きていると
色々な考え方、見方があるのだなということに気づく。
その反面
自分の価値観、見方への固執がどんどん強くなる。
いろいろな見方があるのはけっこうだが
オレサマの見解が正しくて
それ以外の見解を持つものは許されない。
と、なる。
まだ、ギリ、
その時の状況や会話を思い出して
ヤバいぞ!やらかしちまった!、と、のちのち思える時があるが
まもなく、それも完全になくなり、
思い出した途端に、ますます相手への怨念が深まり
憎悪を募らせることになるだろう。
ふと感じた。
横道に話が逸れます。
深まった怨念の穴を、募らせて貯蓄しておいた憎悪で埋められないのかなぁ〜。。。
つまらんことをすぐ考える。
ま、俗に言うオヤジギャグってやつだ。
もとい。
「自分」というのは
「おのずと(自と)」他と「分けられる」存在ということだ。
極論だが
自分で作り上げるものではなく
他に差別されてあるのが「自分」とうことだ。
自分では自分になれない。
子供のいないわたしはお父さんにもお母さんにもなれない。
3人兄弟で末っ子なのでお兄ちゃんにもなれない。
姉のところの最初の子が生まれた瞬間、いよいよオジサンになった。
生徒がいなければ先生にもなれない。
あなたや彼女や彼がいなければ「わたし」はない。
言っちゃえば
そんなカテゴリを全部取っ払っちゃえ
というのがシャカの気がついた〈ホント〉だ。
わたしというカテゴリがないから
あなたもないし、彼も彼女もない。
それが「無我」ということだ。
でも
周りが許してくれないよね。
A「わたしはない!」
B「いや、あるし」
A「ないの!」
B「あるって。ほら」
鏡を見せる
A「だからそういう意味じゃなくてぇ〜」
C「あら!お兄さんステキ♡」
A「マジっすか♡」
B「おもっきしあんじゃん、男としてまで」
A「うっ・・・」
C「お兄さんどうしたの?どこか悪いの?」
A「いや、あなたを魅てから、どうもこのあたりが苦しくて」
と、胸をさする。
Cの手が胸をさする。
C「まぁ〜、どうしましょ!どんどん鼓動が激しくなってきてますわ。やだ、なんだかわたくしの鼓動まで。。。」
B「生きている証拠だな」
ちゃんちゃん。
ま、こんな感じで(どんな感じじゃ!)
わたしは無我にはならせてもらえない。
自我や自分、わたし、自己、そういったものが自身にはない。
対社会、対人間と相対するものとの関係性の中にある。
関係性の中の自己でしかないので
自分の考えというのもエラくいいかげんなものだ。
関係性が変わるだけで変わるし、
周りの状況や、社会の常識で変わってしまう、
自己もいいかげんであるが
社会というもの、社会規範だの、常識だのはいいかげんなものでしかない。
いいかげんなものどうしが集まって作り出す常識なんてものに、振り回されて、束縛されていたら本当に大事なものを見落とすことは必定。
常識や社会を無視しろということではない。
常識も社会規範も人間が作り出したものであり
人間同士の関係性を保つためにある。
その社会規範や常識を大上段に振りかざして
肝心の人間を傷つけているのであれば
本末転倒である。
常識に捕らわれずにいることは難しい。
でも
常識を疑ってみることくらいはできる。
そのヒントをくれるのは
「テメェ!常識ねぇのか、小僧!!!」
と、どやしつけたくなるムカつくやつだったりもする。
ものの見方は様々だ。
ものを観察する時、「その時のわたし」は一方向からしかそれを見ることができない。
だからこそ、他人に聞かないと全体像は把握できない。
「そっちから見たらどんな感じ?」と。
そうした対話が
常識に捕らわれない社会を作ることになる。
人の気持ちが生かされた場が作られるための必須条件だ。
今日もいっぱい対話した。
今は、どうだったかわからないが
たぶん。。。
明日になったら、反省しまくりだろうな。
「自分の意見を押し付けすぎだろ」って😅
さぁ、「自分」をもう少しだけ深く覗いてみよう。
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