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いい高校、いい大学、いい会社に入れば人は幸せになれるのか

ーいい高校へ行き、いい大学へ進学し、いい会社に入ったら幸せになれるー
私は親からそういう教育方針のもと育ってきたように思う。はっきり言われた記憶もないが、常にそういう空気を感じていた。子供のころは、何になりたいかさっぱりわからなかった。
幼稚園の時の卒園文集で書かれていたのは、ケーキ屋さん。母が言ったものの中から選んだだけで、ケーキ屋さんなんてその後の人生でなりたいと思ったことは一度もない。

私は三人姉弟の末っ子で、年の離れた上の二人をみて様子をうかがう子供だった。
ああいうことをすると怒られるんだな、しないようにしよう。
こういうことを言ったらママは傷つくんだな、気を付けよう。
お姉ちゃんのピアノ下手くそだな、自分はもっと練習からいい音楽を奏でよう。
お兄ちゃんはこの高校に行ったから、私もこの高校以上に行かなくちゃ。
自分がどう感じるのか、どうしたいのか、ということは考えてこなかった。

小学校高学年以上になってから、あまり友達と遊びにいった記憶もない。5年生くらいから5教科塾に通って、勉強は人一倍していたと思う。成績もそれなりによく、小中学生の頃は、周りからは優等生だと思われていた気がする。

中学3年生になって、進路を決める時期になった。
このころも、何になりたいのかよくわからなかった。
ピアノを習っていて、コンクールにも出たりしていたがコンクールや音大に入るための練習は受けたことがなかった。
一度地元で有名な音楽高校の夏期講習なるものがあっていってみたが、あっけなく玉砕した。初見で弾く練習すら普段していないし、内容に全然ついていけない。
努力して音大へ入っても、その中で成功できる人は限りなく少ない。自分はその中に入る努力ができるのか。
幼稚園の先生になるか、ピアノの先生になるくらいしかイメージできなかった。
中学生くらいになると、自分の容姿の評価はわかるようになっていた。お金持ちに見初められて玉の輿に乗るのは難しそうだ。いつだったか、家の中で玉の輿に乗れるか、といった話題になったとき母は言った。
「玉の輿に乗るには自分も必死に努力しなきゃダメなのよ。」
この言葉を口にした母の本意に気づくのは、つい最近、2年前のことだった。

何をしたいか全然わからない。でも稼げないで家庭に入る女性にはなりたくない。幸せになれるんなら、普通に大学を目指して、一般の会社に就職しよう。いい会社に入るには、いい大学へ入らなきゃ。選ぶ高校で、選べる大学が決まるよな、なんとなくそう思っていた。

住んでいるエリアで東西南北それぞれの名前のついた高校があり、姉は二番目にいい高校、兄は一番偏差値が高い高校に進んでいた。一番偏差値が高い高校は、国立大学へ入ることがほぼ全員の目標になるような高校だった。
「一番偏差値が高い高校に入学できたらケータイを買ってあげるわ」
母はいった。
このころ、いわゆるガラケーといわれる携帯電話を高校生から持つような時代だった。
ここに入らなかったらケータイ持てないのか。

その一言で、私の目標は定まった。

高校受験はそんなにしんどいものではなかった。
どんな友達とつるんでも、授業だけは真面目に聞き、塾にも通い、ラストスパートは塾の掛け持ちもしていた。
高校受験に必要な知識や覚えるボリュームは、たいしたことがなかった。

でも、このころから、私の勉強は試験のための勉強だった。

希望した高校へ入ってすぐ、学力テストが行われた。
同級生は400人近くいたが、300番台だった記憶がある。自分のことを優等生だと思っていた私は、早くも軽く打ちのめされてしまった。自分と同じ、いやそれより頭のいい子たちがうじゃうじゃいるのかこの高校なんだ・・・・

案の定、授業はすぐについていけなくなった。
毎日の予習復習が大変で苦しかったし、テストの範囲は1教科100ページあったりしたように記憶している。いつもどれかの教科を捨てていたが、勉強しても25点しか取れない科目もあった。
予習復習のために、かばんはいつも教科書やノート、参考書でいっぱい。重いカバンを毎日もって駅から1キロある坂道を往復する。

もっと目の前の問題に向き合えばよかった、と今は思う。だが、予習復習をしても難しい授業についていけず、それでも目まぐるしいほどのスピードで授業が進み、とんでもない量の課題を出される毎日に疲弊していて、体裁だけ整える作業が始まっていた。授業は寝ているか、ノートをとるだけ。理解はしていない。夏休みの宿題は、答えをただ書き写すだけ。頭の良かった子は、提出日に間に合わなかったが問題は全部解いて自分のものにしていた。学校のペースで進めることができなくても、自分のペースで進めるべきだった。でも、それができなかった。

テスト中はいつもおなかの調子が悪かった。下すというのではなくて、おなかがきゅ~~ぐるぐるぐる、と鳴ってしまう。テスト中は静かだから、余計に周りに聞こえていないか気になる。止めたくてもずっと鳴ってしまう。集中できないし、問題もわからない問題ばかり。3年間ずっとそれに耐えていた。
成績優秀者は全体、科目ごとそれぞれに名前が張り出される。目立つ人気者の生徒もいれば、おとなしくて目立たない子たちの名前や仲の良い子の名前ももちろんあり、驚いた。
この子、こんなに頭いいのか。
自分はどんなに頑張っても100番以内に入れることはなかった。

「人の三倍努力しなきゃだめよ」と母はいつも私に言っていた。
かのデヴィ婦人も自分の人生を振り返って、寝る暇を惜しんで語学の勉強をしたというのを本で読んだから、人よりも抜きんでるには3倍努力が必要なのだろう。
だが、母から伝わったニュアンスは、お前は人並みではないのだから、3倍努力してやっと人並みなのよ、というものだった。

毎日、学校へ通うのが億劫だった。
体は元気でも心がしんどいなというときがどうしてもあって、そういうときは年に1回、2回、今日なら休んでもいいかなという日に、しんどいということを周りに悟られないように休んでいた。
いつからか次の夏休み、冬休み、春休みまであと何日か、指折り数えるようになった。
今思うと、高校時代はずっと体調が悪かった。

進学校の制服を着ているということだけが、自分のプライドだったと描かれている矢沢あいの漫画の主人公の気持ちがよくわかる。

そんなつらい中でも、幸い今も連絡を取り合えるようないい友達に恵まれ、楽しい時間もたくさんあった。かっこいい先輩や同級生もいてときめいたし、仲良くしてくれる部活の先輩、面白いクラスメイトもいた。なんでも話せる仲の良い子もいた。

2年生で文系を選択し、3年生では文系のうち、さらにクラス分けがあった。
二次試験で数学が必要な受験をするクラスと、そうでないクラス。
数学が必要な文系の学部でいうと、経済学部、商学部、経営学部、法学部あたり。数学が必要のない学部だと、教育学部、文学部、人文学部、語学学科などだ。
楽な方へ進みたかったが、文学部に行ってどこに就職できるのだろう。
英語だけしゃべれるようになって、どこに就職するんだろう?
楽なほうへ進んでも、そこでいい結果を残せる自信がなかった。
だったらしんどいクラスでしんどい思いをしているほうがいい。
そんな理由で結局数学のあるクラスに進んだが、つまりそれは学年の中でもとりわけ頭のいいクラスに入ることになったということだ。
クラスメイトは、東大、一橋大、京都大、名古屋大、阪大、横浜国立大、などそうそうたる大学に合格していった。

一方私の大学受験は見事に失敗した。
滑り止めで受けるような私立大学ですらどこも受からなかった。
国立大学はもちろん前期も後期も不合格。

高校の卒業式、自分がどんな気持ちでいたのかあまり覚えていない。
浪人生活の新たなプレッシャーや不安はあるだろうが、3年間のあらゆる苦痛や意味のない厳しいルールから解放されると思うとほっとしていた気もする。

高校は服装の決まりも厳しく、スカートの長さは定規をもって定期的にはかられた。ルーズソックスなんてはけなかったし、髪は黒か茶のゴムしか許されなかった。パーマや色を染める、ピアスをあけるなんてもってのほかだし、化粧していると怒られた。もともと色白で色素が薄い私は、髪の色も茶色がかっていて、髪が茶色いと地毛登録という意味の分からない登録をさせられた。

浪人生活になり、服装が自由になった。卒業まではローファーをはいて通学していたが、それはもうはいていけないので、新しい靴を買いに母と買い物に出かけた。
私は、ちょっとはおしゃれしたいなという気持ちがあり、流行りの洋服のお店に置いてあった素敵なパンプスがいい、とねだった。13000円くらいした。当時はその値段のお金の価値などわからなかった。
母は激怒した。
「地に足つけて勉強するんだからスニーカーでいい。13000円を稼ぐのにどれだけ働いてると思ってるんだ」
どうして何も許されないんだろう。結果を出せなかったのは私が悪いけど、それでも高校は苦しくてもあきらめずにちゃんと卒業したのに。成績もよくもないがとてつもなく悪いわけでもない。が、卒業したことなど母にはどうでもいいことのようだった。泣きながら一人で電車に乗り帰った覚えがある。

1年間勉強して、なんとか地方の国立大学に入ることができた。卒業した高校で浪人して入った大学としては、あまり良い結果だとはいえなかった。この後、ずっと学歴コンプレックスはつきまとうことになる。

だが、大学生活は本当に楽しかった。
専攻は情報学だったので、苦手な数学もプログラミングの授業もあったが、一般教養では自分の好きな授業をとれるし、近場の芸術大学にも授業を受けに行ったりした。好きなことを学べ、研究できる、という喜びを味わっていた。
「1冊の本を読むことは1冊分の知識量とイコールではない。それを書いた著者が調べた参考文献や資料の知識がその一冊に詰まっている。それを含めると知識は何十冊にもなるんだよ。だから本を読みなさい」とインド人の社会学の先生が言っていたのが印象的だった。
勉強だけではなくて、バイトや恋愛、旅行や遊びでそれまでほぼなかった人生経験もたくさんできた。

3年生になり、就活を始める時期になった。浪人している頃から、やりたいことを書き出してすべてやろう、と思って大学生活を送っていた。でも2年では全然足りなかった。大学を卒業したら地獄が待っている、と思っていた。父も働いているし、3人産んだ母だって働いている。近所のおばさんもパートに出ている。どういう人生を送ろうと、ずっと一生働くんだ、と思っていたので、まだ遊んでいたかったし好きな研究をしていたかった。結局大学院にそのまま進み、働かない選択を選んだ。

大学の推薦を使って、就職先は大手メーカーのグループ会社に決まった。リーマンショックの影響で、当時は大学の推薦でも決まらないことがあり、私も1社は推薦でも落ちてしまったいた。後がないと思ったが、決まらなかったら海外にワーホリに行って英語だけでも身に着けて帰ってこよう、と思っていた。
ーーもし、あの時海外へいっていたら。
自分の人生はきっと全く違うものになっていたかもしれない。
ドラマ「ブラッシュアップライフ」の世界を私も体験してみたい。

こうしてシステムエンジニアとしてのキャリアが始まった。

配属先にはソフトウェア開発、ハードウェア開発、システムエンジニアの道があった。ハードウェアは全くの専門外だし、ソフトウェア開発に必要なプログラミングは苦手だった。システムエンジニアはお客様が官公庁だったため、大きい仕事ができそうだ、と思い選択した。配属先にしても、人に話して、へー、すごいね、と言われるような選択をしていた。

今思えば、一般的に大企業と言われるような職場だった。職場の人たちは仕事のできる人も多かったし、逆にたくさんの社員を雇用できる大企業だからこそなのか、全く仕事ができない窓際な年配の人もいた。会社はとても保守的な体質で、新しいことはまったくやらせてもらえない。ルールをうまくかいくぐって賢くビジネスをやる、というようなビジネスセンスも自分にはなかった。周りは全員国立大学を卒業している同期たち。そんな中で活躍できるわけもなく、高校の時と同じような感覚で窮屈な思いをした。
仕事はできなかったが、それなりに忙しかった。
定時で帰れたことは1年目の時くらいで、あとはずっと忙しかった。だが、周りはもっといつも忙しかった。こんなに働いて、大丈夫なのか。一番最初に私の直属の上司になってくださった方は「ぽんと休みを取ると、かえっていつも通りに戻ってくるのがしんどくなるね、ははは」と言っていた。
典型的な中間管理職。普段全く休みがなく、土日も家にパソコンを持ち込んで働いていた。ああなりたい、とはちっとも思えなかった。
いつの間にか、私も大企業にあぐらをかいて努力をしない人の部類に入ってしまっていた。なんとなく働いてもお給料はもらえてしまう。3年で辞めて結婚したい、そんな風に思いながら満員電車に揺られていた。

そんな気持ちが恋人にも伝わっていたのだろう。東京では恋人を頼りにしてしまっていた。同期の友達や数少ない友達はいたが、心を許せる友達はいなかった。恋人も仕事や将来のための勉強が忙しく、私は孤独を感じてしまうことが多くなった。東京に出てきてなんとか挫けずフルタイムで働きつつ、私も彼と同じように土日は遊ばず将来のために勉強していたのけれど、たまには息抜きしない?と誘ってみたが彼から言われたのは「なんでもっと頑張らないの?」という言葉だった。
彼はもっと頑張っている女性に出会ってしまっていたのだった。
私とは比べようがないほど頭がよく、稼ぎもあって、何より美しかったーー

もうこれ以上は頑張れないよ、というところまで頑張っていたのに、どこまで頑張らないと幸せになれないのか。彼のその言葉はショックで、今も思い出すと胸が苦しくなり、傷が癒えていない気がする。

運よく転勤の命令が出て、私は逃げるように地元に帰った。東京での仕事も高校の時と同じように、体裁だけを整えた中身のないものだった。社会人5年目も過ぎたころ、目の前の仕事に真剣に向き合ってきた同期と自分を比べた時、ようやくその危うさに気づいた。実務をしっかりこなせるようにならなきゃ。
そこから3年。必死の思いで泥臭く働き、少しだけ自信がついた。だが体は完全に悲鳴を上げていて、歩くと地面がぐるぐるしてしまう。病院に行くと、左耳が聞こえにくくなっていた。
切りのいいタイミングで仕事を辞めた。

2社目は、名前こそ知らなかったが急成長している企業だった。この会社で、さらにIT部門の実務をたくさん経験させてもらい、大きなプロジェクトをプロジェクトリーダーとして任せてもらえるようになった。たくさん失敗もしたが、役職も与えてもらい、部下を持つという経験もさせてもらえた。そのうちに上場したので上場企業のIT部門の課長という娘を持ち、母は満足そうだった。
だが、上場したものの会社の中はひどい有様だった。
社員が250名以上いるのに、ルールが昨日と180度変わったりする。会社として当たり前のルールでも、できないことがあるとできないほうに仕事のレベルを下げる。部長が課長の仕事をして、課長が主任以下の仕事をしている。役職ある人が仕事ができず、仕事のできる人だけが忙しい。これでよく上場しているな、と思っていた。

その頃から明確に違和感を覚えるようになった。
聞こえがいいからといって、中身が素晴らしい、伴っているとは決して限らない。それは自分自身が実感してきたことだし、自分が勤めた企業にも言えた。
付き合ってきた何人かの恋人たちは、自分と同じような環境で育ち、学歴も収入も同じようにある人ばかりだったが、35になっても私は結婚にはたどり着けない。
いつまで頑張れば幸せになれるんだろうかーーー
それなりに、いい高校へ入っていい大学へ進学して、いい会社にも入れたと思う。もっと努力している人、もっと頭のいい人はたくさんいるのはわかっている。でも私は本来の自分よりもきっとすばらしい結果を残せてきたとは思っている。そこに、親への感謝があった。やりたいと思ったことは何でも惜しみなくやらせてもらえた。塾もいくつも通わせてもらえて、習い事もさせてもらえた。厳しく育ててくれたから、今の私はいる。
だが、幸せかといわれるとそうではなかった。
自分が思う”幸せ”の価値観は、その時まだわからなかった。でも確かに幸せではない、と断言はできていた。

ふと思い立って、プロに頼んで婚活してみるか、と軽い気持ちで結婚相談所に入会していた。婚活を進める中で、私と結婚したい、と言ってくれる人が現れた。デートを重ねていく中で、なんか違うな、と思えば断っていい、とカウンセラーは言っていたが、彼はそういうところがなくていつも次のステップを断る理由がなかった。そのまま数か月後にプロポーズしてくれた。

親には婚活をしているということすら話しておらず、ましてやいい人がいる、という話もしていなかった。反対されるかもしれないと思っていたからだ。

彼は、大学を出ていなかった。卒業した高校の偏差値も高くない。おまけに収入は私よりも200万ほど低かった。
学歴や収入が気にならなかったわけではない。でも私の中で断る理由にはならなかった。結婚しよう、と言ってくれたことが本当にうれしかった。誰でもよかったわけではない。


一緒に暮らして、そのうち結婚しようと思うーーーそう両親に電話で伝えた。
案の定、母は大反対だった。父さえも、「お前は国立の大学院を出た人間なんだぞ。高校しか出ていないからその収入なんだろ?私も賛成はできない」と冷静な声で意見を言った。父との電話越しに、中流家庭の人間とは思えないような母の罵詈雑言が聞こえてきていた。
心のどこかでは、35歳でようやく結婚するんだから、よかったねと言って喜んでもらえるとも期待していたのだが。

「何のために大学まで出してやったのか」
と母が嘆いたとき、私はこう返した。
「誰と結婚しても、一生結婚しなくても自立して生きていけるようになるためじゃないのか」
「違う。学歴も収入も申し分なく、家柄もいい人と結婚してお前が一生働かなくてもいいようになるためだ」
さも平然とそんな言葉を口にした。

そんな時代錯誤な親の希望を叶えるために私は今まで頑張ってきたのかーー

勝手にしろ、と吐き捨てられたので、本当に勝手に結婚してしまった。
両親には言わなかった。その後一切連絡も取っていない。
兄は疎遠で、私が結婚しているかどうか知らない。
姉は唯一仲がいいが、母とは折り合いが悪く、面倒なことに巻き込まれたくないとのことで永世中立を誓われた。
上場していてもずさんな会社を辞め、今は小さなシステム会社で働いている。収入は200万下がった。
しかし結婚して1年半ほど経つが、私は今とても幸せだ。
日常のふとした時に自分の中に”あー、なんか幸せだなぁ”という言葉が浮かぶ。
日々いろいろあるけれど、それが毎日続いている。


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