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「こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない」

■立花隆『宇宙からの帰還』

宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさにうたれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成されるということはありえない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる」(サーナン) ー 282ページ
宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ」(アーウィン) ー 142ページ


日本に生まれ日本で育った私は、当たり前のように無宗教を貫いて生きてきた。「貫いて」というほどの意志もなく、ただ成り行きでそうなった、という程度だ。

私たち日本人にとって宗教という存在はとても遠い。「神」という言葉をリアリティをもって発している人が、いったいどれだけの割合で存在するだろうか?宗教を積極的に信じている人(なんとなく家に仏壇があるとか神棚があるというのを除いて)に対して、色眼鏡ぬきに接することのできる人が、どれだけいるだろうか?

この本は、宇宙に実際に行った宇宙飛行士たちへのインタビューである。

特に当初の宇宙飛行士たちは、ザックリいえば「理系」なので、技術者としての側面あるいはアスリート的に優れた健康体が注目を浴びることが多い。しかしこのインタビューはむしろ「文系」というか精神世界に寄っている。特に、神、あるいは宗教観についての話がよく出てくる(著者の興味だろう)。

読んでいて、素直に「うらやましいな」と感じた。

……というのは、私はいつも神や宗教について語りたいと思いながらも、日本では堂々と神や宗教を語りづらい雰囲気がある気がして、遠慮しているからだ。

具体的になにかの宗教(仏教、キリスト教etc…)の教義を信じているわけではない。宗教の話に単純に興味があるから、聖書の内容を知りたいと思ったり、いろいろ調べたりしているけれど、この先もおそらく無宗教でい続けるだろうと思う。

しかし一方で、「神的なもの」は本当に存在しないのか?という純粋な問いを抱き続けている。

それゆえ大いに共感したのがサーナンという人物の考え方、特に最初の引用である。

ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成されるということはありえない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる」(サーナン) ー 282ページ

この本に登場する宇宙飛行士のうち、宇宙に行って神秘体験をした結果、特定の宗教にのめり込んだ人は多くない。多数派はむしろサーナンと同じく、宇宙と地球の壮大さを感じたときに、神の意志(神の存在)を確信した。しかしそれは必ずしも特定の神ではない──という意見だ。

「私は神とはパターンであると思っている。宇宙で私は人間や地球がとるに足りない存在であることを発見したといった。私が発見したことはそれだけではない。同時に、宇宙においては万物に秩序があり、すべての事象が調和し、バランスがとれており、つまりはそこに一つのパターンが存在するということを発見した。昔から人間はそういう秩序、調和、バランス、パターンがあるということに気がつき、その背後に人格的存在を措定して、それにさまざまの神の名前を与えた」(カー) ー 331ページ

私は、もちろん宇宙に行ったことがないから、どれだけ地球が美しくてどれだけ宇宙が黒く深く怖しいのか、実感としてはわからない。けれども、彼らが言わんとしていることはこの本でわかったと思う。

物理学的な説明では、この宇宙はビッグバンから生まれたことになっている。

物理学のことは詳しく知らないが、インフレーションとかトンネル効果とか虚数時間とかいう、ちょっと理解の追いつかない概念によって、今のところビッグバン前後の宇宙は説明されているらしい。

しかし、それはまあいいとして「じゃあそのビッグバンやこの地球の誕生に、まったくもって上位概念(神)のような意志が存在しなかったか?」という疑問がつきまとう。物理学でいくら説明されても、それはあくまで「理屈」であり「仕組み」の説明であって、それとは別の「なぜ?」の説明にはならない。

「現代物理学はこのレベルでは無知なのだ。科学はいつも『なぜ』という問いかけを、『いかにして』に置きかえて、説明をひねりだしてきた。根源的な『なぜ』、存在論的な『なぜ』に、科学は答えることができない」(ギブスン) ー 322ページ

これと同様の内容を以前、河合隼雄『ユング心理学入門』で読んだ。

ヘルムホルツの有名な言葉、「物理学はWhyの学問ではなく、Howの学問である」を思い出す。雨はなぜふるのか、風はなぜ起こるのか、という問いについて思弁しようとするのをやめ、雨はいかにふり、風はいかに吹くか、その現象を適確に記述しようとの態度によって、近代の物理学は発展してきた。極限それば、WhyをHowに変えることによって、自然科学は今日の発展を遂げてきた。 
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この輝かしい理論体系は、われわれの患者の「あのひとはなぜ死んだか」という素朴なWhyには、何らの解答をも与えてはくれない。実のところ、心理療法家とは、この素朴にして困難なWhyの前に立つことを余儀なくされた人間である。(『ユング心理学入門』P.3)


まさにこの引用に書いてあることと同じなのだが、私は先日父を亡くした際に、母が何度も「なんで死んじゃったの」と言っているのを聞き、それがずっと心に残っている。

「なんで死んじゃったの」

は、とてもとても難しい言葉だと感じた。

父の死因は明確にわかっていて、そんなものを問うているわけではないのは誰だってわかる。それに、父が死にたくて死んだわけでもないこともわかっている。(例えば自殺ならば、何か辛いことがあって死のうと考えた……と説明され、その「辛いことがあった」が「なんで」への答えになるのかもしれない。しかし父は自然死だったので、そういう話でもない。)

では母は、決して返答のないこの問いを、誰に、どのような意味合いで投げかけているのだろうか?その感情はどう説明できるのか?

そして、じゃあ「なんで父は死んだ」のか?

私はずっとずっとこの言葉の意味を考えている。


この「なんで」を説明してくれるのは、現代の科学ではないだろう。ということは確信している。

こうした「なんで」を説明できるのが科学ではないとしたら、他の可能性としては、人間の営みにおける何かの現象や心理状態として──あくまで「人間の」ボキャブラリーで──説明することも可能だろう。それは一つの選択肢だ。

ただ、私はそこで人間のボキャブラリーに固執するのではなく、もっと上位の概念があるのかもしれない、という可能性も考えたい。神や宗教について考えたいというのはつまり、そういうことだ。

それは、既存の宗教ならあらゆる人格神で、ユングの心理学でいえば集合的無意識にあたるのかもしれない。「神」という語は限定的すぎるのだが、いまそれ以上に的確な言葉がないので暫定的に使っているにすぎない。

きっと宇宙飛行士たちもそうなのだと思う。彼らはみなアメリカ人だから「神」という存在や言葉に慣れている。ほとんどの人が何かしらの「神」を信じているというバックグラウンドでは、私たちが受ける印象とは違う可能性が高い。

「結局は、彼の神も、私の神も同じなのだと思う。実体は同じで、私と彼の認識の仕方がちがうというだけのことと思う。宗教によって神の認識の仕方がちがうというのと同じことだ」(サーナン) ー 290ページ

このように書きながらも、正直にいって、「こんなに神とか宗教とか書いて、ひかれないだろうか?あやしい人だと思われないだろうか?」という不安が大きい。

ひょっとして私が気にしすぎているだけで、意外とみんな気にしないのかもしれない。けれど、この10年かもっとか……大人になってからマトモに「神」の話をした記憶がない。

最後にもうひとつ眉唾な話を。

私は数学や物理学が大好きだ。

理科系のなかでも、生物のような説明がゆるい(と思う)学問は苦手で、1から始めて2、3、4、5……と順々に説明してゆき結果として100になる、というような学問が好きなのだ。

しかし、以前から思っていることだが、数学も物理学も「ある視点で、論理的プロセスを踏んで、1→100を組み立てることができたから説明します」というモノにすぎないのだろう。とも思っている。

たとえばニュートンの時代にはニュートン物理学がすべてを説明しているように思えた。しかしその後アインシュタインが登場して相対性理論を唱えたら、そっちのほうがより正確かもしれないとなった。さらに今となっては、量子論とか超ひも理論とかいろいろ出てきている。

でも普通に生活しているなら「ニュートンで事足りる」のではないか。

アインシュタインの相対性理論は、とても大きく、それこそ宇宙レベルで物事を考えない限りは意味をなさない。「宇宙に行こう」というレベルで視野を広げたり、その技術で何かを作ったりするのでなければ、無駄な理論で、考える必要もない。狩りや農業で生計を立てるのにはまったく必要がないし、そこまでいかなくても例えば建築物の構造計算レベルでも必要がないだろう。要するに、普通の生命維持には必要ない。

でも相対性理論は科学の進歩という側面では、だいぶすごいらしい。すごいけど、デカすぎて説明できないことがあったから、小さいスケールで説明したくなって、量子論ができたとのこと。なんだかよくわからない。

結局、科学はたしかに「うまいこと論理的に説明してますね」だけれど、現時点で人間の考えうる限りの、特定の場面での説明でしかないし、それが全てではなくまだまだいろんな可能性があると思っていいのだろう。


さて、宇宙飛行の後にESP(超能力)に目覚めた人の話が出てきた。

私は超能力なんてまったく信じていない、どちらかといえば否定的に見ている、が、冷静に考えてみると「なぜあり得ないのか」はわからない。

テレパシーなんてあり得ない。普通にそう思う。

しかし、縄文時代の人からしてみたら今の私たちはテレパシーし放題に見えるのではないか?Wi-Fiが感覚的に「あり得る」と思っている人がどれだけいるだろう?(なぜ情報が空中を飛ぶのか?私には理解できない。)

一般的にみんながもっているのは「科学的に説明されているようだから、大丈夫」という程度の認識ではないか?

だとしたら、いずれテレパシーだって科学的に説明されるのかもしれないね、と言える。

相対性理論や量子論の存在を予知できた一般人など、皆無である。説明されたか否か。それだけの違いだと思う。

科学を盲信していいのだろうか。説明しきるという気持ちよさはさておき、もっと広い視野を持たなければという危機感もある。


「この地球の自然なしには人間は生きていけない。というより人間も地球の自然の一部なのだ。地球を離れては、人間は呼吸することすらできない。宇宙人が地球にやってきたらエイリアンだが、宇宙における地球人もまたエイリアンなのだよ。地球以外にいきどころがないのが地球人だ」(シラー) ー 278ページ

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