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「分別の心に、わずかな愚かしさを交ぜよ。時をえて理性を失うのは、いいものだ」

■柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』

分別の心に、わずかな愚かしさを交ぜよ。時をえて理性を失うのは、いいものだ。
(ホラティウス『詩集』第四巻12.27)

ときどき、ぶらりと本屋に入る。

私はあまり大きな本屋が好きではない。最初は「すげー!」と興奮するのだけど、15分もすると疲れてしまう。選択肢が多すぎるのだ。「どんな本でも用意してありますよ」という圧力のなかで「最適な一冊を選び取らなければならない」と(勝手に)感じ、疲れてしまう。

だから、近所の小さな本屋が好きだ。ひと目で見渡せる程度の限られたラインナップから「あ、これ気になるな」とサッと手に取って買う。迷うことはあまりなく、後には満足感だけが残る。特に、岩波文庫と新潮文庫は外さない(と思う)。

たとえばショーペンハウアー『読書について』(これがきっかけで哲学書を読んでいる)だったり、アガサ・クリスティの著作なんかはたいてい何冊か置いてあるので、気が向いたらササッと買って積んでおく。


前置きが長くなってしまったが、この本もそうして手に取った一冊だ。

ギリシアとローマの名言が、日本語訳/原文と出典/簡単な解説、というセットで一つずつ並んでいる。気負わずに軽く読めるから、ちょっとしたお出かけのお供やプレゼントにもよさそう。

中でも気に入った名言を、個人的な感想とともにいくつか紹介します。

分別の心に、わずかな愚かしさを交ぜよ。時をえて理性を失うのは、いいものだ。
(ホラティウス『詩集』第四巻12.27)

タイトルにものせたこれは、私が最も気に入ったフレーズ。「わずかな愚かしさ」というのは言い換えればイタズラ、遊び心、ハメを外すこと──というようなものかな、と。前提として、分別と理性を備えた人でなければ実現できない愚かしさ。分別があるからこそ「時をえて」理性を失うこともできてしまう。そんな人間になるのが私の目標かもしれない。


切り口上よりも滑稽な言葉の方が、はるかに強力に、そしてうまく難問に切り込む
(ホラティウス『風刺詩』第一巻10.14)

またホラティウス、そしてまたユーモア系。笑 そうそう、これも本当にその通りだな、と。自分にはユーモアが欠けていると常々感じているので、強力な言葉を発して物事を片付けてみたいという憧れがある。真面目さは美徳だが、真面目さに安住したくはない。


泣くことがある種の喜びとなることもある。涙によって悲しみは鎮められ追い払われるから
(オウィディウス『悲しみの歌』第四巻3.37)

笑いがすべてを解決する時もあれば、悲しみから流れる涙がすべてを浄化するときもある。その二つに優劣を感じたことはない。どちらもほんとうに大切な作用だと思うし、どちらかが欠けるとバランスを崩すのではないかと思っている。


ソクラテスは、みんなは食わんがために生きているが、私は生きんがために食うという点で違っているのだとよく言っていた。
(アテナイオス『食卓の賢人たち』第四巻158f)

少しニュアンスは違うが、「仕事をするために生きるのではない。生きるために仕事をするんだ」と言った友人がいた。この言葉を知っていたのだろうか、それとも偶然だろうか。私も、生きるために食べ、生きるために仕事をしていたい。目標を取り違えないようにしたい。


文学に楽しみだけを追求することにしても、精神のこの気晴らしをたいへん人間的で自由人に値することだと諸君は判断されるであろう。……文学は、青年の精神を研ぎ、老年を喜ばせ、順境を飾り、逆境には避難所と慰めを提供し、家庭にあっては娯楽となり、外にあっても荷物とならず、夜を過ごすにも、旅のおりにも、バカンスにも伴となる
(キケロ『詩人アルキアス弁護演説』16)

素晴らしい一文。文学は、生まれてから死ぬまでのいかなる瞬間にもそばにあり続け、私を裏切ることも傷つけることも決してないだろう。


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