〈興奮〉ではなく〈退屈〉から幸福を得るという生き方
■バートランド・ラッセル『幸福論』
以前読んだショーペンハウアーの『幸福について─人生論』と比べると、同じ幸福論でも大きな思想の違いが見てとれた。
一言でいえば、ショーペンハウアーの幸福論が「(やや)ネクラで知識層向け」であるのに対し、ラッセルの幸福論は「ネアカで一般大衆向け」である。
ショーペンハウアーの主張は「他人との関わりを断ち、一人で精神的思索に没頭する喜びを追求せよ」だった。一方でラッセルは「意識を外に向け、他人と友好に関わり、考えすぎるのをやめろ」という主張である。
孤独を愛さない者は、自由をも愛さない者というべきだ。というのは、人は独りでいる間だけが自由だからである。
(ショーペンハウアー『幸福について』P.211)
幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。
(ラッセル『幸福論』P.268)
これは正しい・正しくないではなく、彼らの生まれもった性格と育った環境によるのではないだろうか。哲学者といえども所詮人間なので、自分の見えている世界や社会に適合できる理論を唱えてしまうだろう。
私が個人的にどちらに同意するかというと、まだわからない。どちらも言っていることは正しいと思う。ただ、ショーペンハウアーがあまりに「知性(知力)」を重視しすぎる点には疑問を抱いていたので、そうでなく、どんな状況の人でも幸せになれると解いたラッセルのほうが「いい人だな」と思う。笑
◎
このラッセル『幸福論』は、そのように一般大衆向けに書かれた本なので、哲学書の中では比較的読みやすい部類に入ると思う。「あーわかるわかる」とか「うわーそれ言われると辛いな〜」などと共感しながら読める本だ。
中でも私が言語化してもらえて助かったと思った内容は、第4章「退屈と興奮」だ。
・
ラッセルはある程度の「退屈」を良しとし、「興奮」を悪しきものとする。なぜなら、
前の晩が楽しければ楽しいほど、翌朝は退屈になる。(P.66)
つまり、興奮(刺激を受けること)はさらなる興奮によって埋め合わせるしかなくなってしまうということだ。結果としてさらなる興奮が得られなかった場合には退屈が生まれる。そのように興奮を追い続ける人生では決して幸せになれないからだ。
これは、一般認識の過ちを鋭く突く視点だと感じた。
例えば昨今のステイホームという状況を考えてみると、多くの人が手持ち無沙汰になって「退屈」を感じているだろう。そして「退屈」を紛らわすために「興奮」を探しているだろう。「興奮」を探すこと自体は本能的な欲求だから、悪いことではない──と一般的に思われている気がするし、私もそう思っていた。
しかし「興奮」を追って一時的に楽しい感情を得ても、その楽しいことが終わった後では余計に強い「退屈」が襲ってくることも万人に共通した現象だろう。共通していながら、見過ごされて、「だめだ。もっと楽しいことを探さなきゃ」となってしまっているのではないだろうか。
この無限ループは、冷静に考えると地獄である。
だからラッセルは、ちょっと退屈だと感じるぐらいの穏やかな生活を楽しめば幸福になれると言う。
あまりにも興奮にみちた生活は、心身を消耗させる生活である。そこでは、快楽の必須の部分と考えられるようになったスリルを得るために、絶えずより強い刺激が必要になる。多すぎる興奮に慣れっこになった人は、コショウを病的にほしがる人に似ている。そんな人は、ついには、ほかの人ならだれでもむせるほど多量のコショウでさえ味がわからなくなる。
退屈には、多すぎる興奮を避けることと切り離せない要素がある。そして、多すぎる興奮は、健康をむしばむばかりでない、あらゆる種類の快楽に対する味覚をにぶらせ、深い全身的な満足をくすぐりで置き換え、英知を小利口さで、美をどぎつい驚きで置き換えてしまう。
私は、興奮に対する異議を極端に唱えるつもりはない。一定の量の興奮は健康によい。しかし、他のほとんどすべてのものと同じように、問題は分量である。少なすぎれば病的な渇望を生むかもしれないし、多すぎれば疲労を生むだろう。だから、退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。(P.68)
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その他にも良い内容がたくさんあるので、以下に引用しておきます。
世評に本当に無関心であることは、一つの力であり、同時に幸福の源泉でもある。(P.150)
他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である。何でも楽しいことが起これば、目いっぱい楽しむべきであって、これは、もしかしてよその人に起こっているかもしれないことほど楽しくないんじゃないか、などと立ち止まって考えるべきではない。(P.95)
あなたが栄光を望むなら、あなたはナポレオンをうらやむかもしれない。しかしナポレオンはカエサルをねたみ、カエサルはアレクサンダーをねたみ、アレクサンダーはたぶん、実在しなかったヘラクレスをねたんだことだろう。したがって、あなたは、成功によるだけでねたみから逃れることはできない。歴史や伝説の中には、いつもあなたよりももっと成功した人がいあるからである。(P.97)
精神は、不思議な機械であって、提供された材料をまったく驚くべき仕方で組み合わせることができるが、外界からの材料がなければ無力である。(P.177)
私は完全に内向的な人間なので、もっと外の世界に意識を払うこと、そして他人の目を気にしすぎないことを意識していこうと思った。
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