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「愛する相手の瞳に自分の姿が映らない女の気持ちって、いったいどんなものだろう」

■レイモンド・カーヴァー『大聖堂』

愛する相手の瞳に自分の姿が映らない女の気持ちって、いったいどんなものだろう。愛する人から、かわいいねとか、そういう賞賛の言葉ひとつかけられることもなく、ただ延々と日々を送りつづけることのできる女。(「大聖堂」)

この短編集は、すごくよかった。特に表題作の「大聖堂」が、本当に素晴らしかった。

短編集というスタイルを長編に劣らず好んで読んでいるけれど、ここまで出来の良い短編はちょっと思い出せない。それくらい良かった。

でも、あんまりベタ褒めしてしまうと無駄にハードルが上がって、良くないかもしれない。カーヴァーは特に“そういう”タイプの作家だ。何も考えずに読んでほしい、空っぽの頭で読んでみてもらいたい──という個人的な希望とは、どうしても矛盾してしまう。でもやっぱり今、この感動を伝えずにはいられない。


物語性を削りとったフィクション

カーヴァーのこの魅力を、一体どういう言葉で伝えられるだろうか。日本ではあまり有名とは言えないこの作家を、もし紹介するとしたら、なんと表現すればよいだろうか──。

読みながら考えてみたけれど、とても難しい。でもあえて「こんな人です」と簡潔に伝えるとしたら、「物語性を削りとったフィクションを描く作家」というのが私の印象だ。

この「物語性を削りとったフィクション」というややわかりにくい表現を、簡単に説明してみたいと思う。

普通の小説は、言うまでもなく(基本的に)「フィクション」である。フィクションというのは「虚構」、つまり本物ではなくて想像上の産物である。多くの場合は「物語」と同義と言ってしまっていいだろう。

私たちは、小説をそのような心づもりで読んでいる。作家は作家で、そのような心づもりで書いている。

実はこれは、「小説」に限ったことではない。例えばこのnoteのような場所でも、他人との会話においても、私たちは、自分の身に起きた出来事すらも「物語」として──つまり、脚色して──語ってしまっている。なかば無意識のうちに。

例えば私は、過去にこのnoteでは以下の投稿において「自分と他人の関係」を語っている(ちなみに語られているのはそれぞれ別の人物です)。

「めんどくせぇヤツ!」
「一次情報量不変の法則|世界の解像度は変化する」
「友達」
「〈箱の中のカブトムシ〉と〈シグナリング〉」

「一次情報量不変の法則」の最後で語っている「彼」について、私は「秋葉原のオタク」という表現をした。間違ってはいない。けれど、これは私のフィルターで味つけしてしてしまった表現だ、と自分でも思う。

彼は確かに見た目がオタク系だった。けれど、おそらく上の投稿を読んだ人がイメージするのとは異なって、かなり明るい人物であり、女性との付き合いも絶えなかった(と認識している)。積極的な性格で、舞台の主役をつとめちゃうような人だった。なんなら、見た目がオタクっぽかっただけで、オタクですらなかった。

彼との話でもっとも印象深かったのは、「鍼」をオススメされたときのことだ。鍼。身体に刺すアレだ。私は鍼を経験したことがないから興味があったのだけど、何よりも興味深かったのは、彼が(一人暮らしの)自分の部屋に女性を呼んで施術してもらう。という事実だった。私の邪な思考回路では、彼のフワフワした(彼はけっこう太っている)半裸の姿と、その美人(と仮定した)の鍼師の姿が、どうにもいやらしく思えて仕方なかった。

──とまぁ、そんなことはどうでもいいのだ。どうでもよすぎる情報だから、「一次情報量不変の法則」の話を書いた際にはバッサリカットした。彼の風貌や性格について語りはじめたら色々あるが、脇道にそれすぎる。それでは私の書きたいことがうまく伝わらない。と考えた。

この「私の書きたいことがうまく伝わらない」という感覚、それによる「バッサリカット」こそが「脚色」だ。

脚色は「足す」ことだけではない。「引く」ほうもある。

普通、語られる物事というのは、このようにして「物語化」されてしまうのである。そうしないと話がまとまらず、伝えたいことが伝わらないからだ。noteに書かれるエッセイが面白いのは、日常がきちんと物語に変換されているからだ──と私は感じる。

レイモンド・カーヴァーは、そのような意味での脚色あるいは物語化を“しない”。あるいは、“してないように見せる”。カーヴァーの特徴と魅力を、私がかろうじて言葉にできるとすれば、このような説明になる。こんなに長い説明をしないと(したとしても)うまく伝わらないくらい、「読んでみないとわからない」魅力だ。

レイモンド・カーヴァーの存命中も、そして彼の死後においても、批評家やジャーナリストたちは、彼の作品をなんとか響きの良いキャッチフレーズにまとめてしまおうと努めていた。いわく、「ミニマリスト」「ダーティー・リアリスト」「田舎者シック」「貧乏白人小説」「フリーズ・ドライ小説」彼らはそんな言葉で彼のスタイルと内容を規定し、説明してしまえると思っているみたいだた。しかしその作品群は終始一貫して、そのようなラベルを拒絶しつづけている。その神秘は神秘のまま残っているおそらくそれこそが偉大な作家を定義する資質のひとつなのだろう。そう、私はそう思う。たとえ何を言われようと、神秘が神秘のまま残っているという点が。(テス・ギャラガー:カーヴァーの妻による序文より)


解釈を拒むタイトル

毎度々々タイトルがぶっきらぼうすぎることも、カーヴァーの魅力がわかりづらい一因となっているかもしれない。

例えば「羽根」「ビタミン」「熱」「大聖堂」といったように

「羽根って?いったいどの羽根のどういう状態を指しているんだ?」

というようなタイトルばかりである。タイトルを見た時点で内容がイメージできることはあまりない。

これは、カーヴァーが物語化しないことと関係あるのではないか、と私は感じた。彼は(翻訳者の村上春樹氏がしばしば使う言葉を借りれば)、日常をそのまま「スケッチ」するように書く。私がnoteで行ってしまっているような脚色はしない(実際にはしているのだが、していることを読者に感じさせない)。

そこには「主題」と呼ぶべきものがない。いや、本人にとってはあるのかもしれないが、たぶん彼は「これが主題です」と言いたくなかったのだろう。

『人間失格』とつければ「ははぁ、人間として失格するんだな」となってしまうし、『変身』とつければ「へぇ、変身するんだ」となってしまうし、『老人と海』とつければ「ふむ、老人と海についての話なんだな」となってしまう。

ここに挙げた三作品は比較的簡潔なタイトルの部類だけれど、それでもカーヴァーにはかなわない。というか、上記三作品は「本当に大事なことをタイトルにしている」のに対して、カーヴァーは「本当に大事なことはタイトルにしない」のだ。

カーヴァーはスルメ作家であることに間違いない。このスリルはクセになる。

タイトルがここまで素っ気ないわりに、読み始めると止まらないくらいその描写が読みやすくて面白いのだから、なんともお手上げという感じだ。

文章を書く人ならわかってもらえると思うけれど(もちろんnoteを書く人も)、タイトルに主題をのせないというのは怖いことだ。その勇気はなかなか出てこない。少なくとも私にはない。「伝えたい」という気持ちを消すことは、とうていできない。

批評家のハロルド・シュワイツァーはカーヴァーに敬意を表する文章の中で、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の中の「それは少しばかり簡単すぎる謎なのだ」という一節を引用していたが、これは実に的を得た指摘であると私は思う。彼が言いたいのは、カーヴァーの文章は何ひとつ隠してはいませんよと見せかけながら、実はすべてを隠しているのだということである。(同じくテス・ギャラガーの序文より)


「大聖堂」の果てしない温もり

この短編集は全体としても粒ぞろいで、前回読んだ『愛について語るときに我々の語ること』よりも完成度が高かったと思う。しかし、表題作にしてラストを飾る「大聖堂(カテドラル)」が欠けていれば、私はここまでの120点評価を与えることはなかっただろう。

この投稿を読んでいる人に、本当に読んでもらいたいと思っているから、「大聖堂」の詳細は書かない。具体的に何が良かったのかも、本当はとても書きたいけれど書かない。

ただ、他のいくつかと違って「大聖堂」は圧倒的に暖かかった。そのような意味で、総じてドライなカーヴァーの作品において──悲劇の中のひとさじの温もりを強調するカーヴァーのスタイルにおいて、この「大聖堂」は異色かもしれない。

人間の温もりや感情の変遷がここまで鋭く感じられる短編は、稀有なのではないかと思う。

もしかしたら、そんな完成度の高さゆえに若干の「物語み」を帯びてしまっていて、カーヴァーらしさが薄れかけているかもしれない。ギリギリのバランスだと思う。ギリギリの傑作だと思う。

書き出しだけ、少し引用しておきます。

 盲人が私のうちに泊まりに来ることになった。妻の昔からの友だちである。──(中略)──私としては彼の来訪を心から歓迎するという気分にはなれなかった。何しろ会ったこともない相手である。それに目が見えないというのもうっとうしかった。(「大聖堂」)

興味を持ったら、読んでみていただけたら嬉しいです。ただ、万人受けする作風ではないと思うので、もし「うーん、よくわからない」となったらごめんなさい。笑


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