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やっぱり、紙とペンで

最近、アナログの力を見直している。

私は子どもの頃からワープロやパソコンが大好きだった。大人になってからはApple信者となり、デジタルデバイスやガジェットを収集している。このnoteでも、iPad Proについてテンション高めに語ってみたことがある。

引き続きAppleは好きで使っているのだが、4月に職場復帰してから「やっぱりアナログじゃないとダメかも」と思うシーンがすごく増えた。




考える時はアナログ、伝える時はデジタル

現状では、
考える時はアナログ
伝える時はデジタル
という棲み分けが最も効率=クリエイティビティを上げる。という結論に至っている。

以前iPad Proの記事を書いた際には、考える時にもデジタル(iPad Pro)を使っていた。具体的には「Concepts」という無限キャンバスアプリを使っていた。

しかし今……正直に言って、Conceptsを全く使わなくなった。
Good Notesもほぼ使わない。
Apple純正の手書きノート系アプリも使わない。

やっぱり、紙とペンが良い。

コピー用紙の裏紙でも手帳の端っこでもいい。どんなに整っていないスペースであったとしても、[iPad+Apple Pencil]よりは[紙+ペン]のほうが圧倒的に思考が捗る──という事実は、認めざるを得ない。

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紙+ペンの優位点を具体的に挙げてみると、
・すぐに取り出してサッと書ける
・壊す心配がなくラフに扱える
・筆圧がしっかりとかけられる
というところ。

これらは必ずしも万人に共通の優位点ではなく、私個人の職業や気質にも関連しているかもしれない。

まず、私は設計の仕事をしており、屋外(建設現場)や出先(役所等)でとっさにメモをとる場面が多い。そういう時にiPad+Apple Pencilはどうしても使いづらい。また、私は筆圧が強めでもある。iPadの画面にペーパーライクフィルムを貼ったとしても紙の「凹み感」には劣り、書き心地に満足できない。

だからもしも、
・室内でのデスクワークや打合せがメイン
・筆圧が弱い
という人だったら、iPad+Apple Pencilをより快適に使えるかもしれない。


「分析モード」と「パターン認識モード」

──しかしもうひとつ。このところ明確に感じられる違いは、以下のようなものだ。

メディア批評の先駆者、カナダのマーシャル・マクルーハン(1911~1980年)は紙のほうが間違いに気づきやすい理由について、「反射光」と「透過光」の性質の違いを指摘した。前者は本を読むとき、いったん紙に反射してから目に入る光。一方、後者はパソコンやテレビの画面を見る際、直接目に入る光を指す。

紙に印刷して読むとき、すなわち反射光で文字を読む際には、人間の脳は「分析モード」に切り替わる
。目に入る情報を一つひとつ集中してチェックできるため、間違いを発見しやすくなるのだ。

これに対し、画面から発せられる透過光を見る際、脳は「パターン認識モード」になる。送られてくる映像情報などをそのまま受け止めるため、脳は細かい部分を多少無視しながら、全体を把握しようとする。細部に注意をあまり向けられないので、間違いがあっても見逃してしまう確率が高くなる。

「紙」に印刷すると間違いに気づく理由
=「画面」にはない脳の働きとは?=

数年前にはじめてこの記事を目にして以来、デジタル/アナログそれぞれに正対する自分の「目」を常に意識してきた。
その結果、私個人としては
(1)反射光(紙)
   →「分析モード」
   →情報を批評的に見ることが可能
(2)透過光(画面)
   →「パターン認識モード」
   →情報を受動的に受け取る
という差異は確実にあると感じている。

iPadの画面は(2)の透過光であるせいだろうか、iPad上でスケッチを描いてみても思考がしづらい。頭が働きづらいという感覚だ。そこでデバイスを紙に切り替えて描いてみると、思考が格段に楽になる。

また上の引用に書かれているように、紙は「目に入る情報を一つひとつ集中してチェックできるため、間違いを発見しやすくなる」という違いも確かに感じる。職業柄、図面を印刷して小さな間違いを探すような場面が多いのだけれど、iPadだとかなり時間がかかる。というか、そもそもやる気が出ない。

iPadが、先ほど述べたようなハードとしての制約(例:筆圧を感じられない)だけでなく脳の仕組みにおいてもハンデを負っているのだとしたら、「紙を使ったほうが思考しやすい」という点もより納得できる。

他のみなさんはどうなのだろう?


デジタルは情報伝達に強い

とはいえ、デジタルにはデジタルの良さもある。最初に書いたように、

考える時はアナログ
伝える時はデジタル

という棲み分けが私には合っていた。

「考える」時間は紙にペンで描くとしても、「伝える」際には基本的にデジタル(メールやSlackなど)を使う。

「伝える」手段の選択肢は、
・描いた絵をiPhoneで撮って送る
・描いた絵をスキャンして送る
・Apple Pencilを使って直接アプリ上で描いて送る
となり、すべて最終的にはデジタルつまりPDFやJPEGデータに行き着く。

ここで「Concepts」や「Good Notes」のようなiPadアプリを使うのが便利な場面もある。しかし私は、コロナ禍が終わり育休も終わって、4月からほぼ毎日出勤するようになった。だから「オフィスに大きな複合機があってA3をスキャンできる」という単純な理由で「描いた絵をスキャンして送る」ことが圧倒的に増えた。その方がステップが少なくて、速い。

・・・

また、デジタルは情報を「伝える」ことに強いので、情報の受信においても便利だ。iPadでの情報収集は紙に勝る(私にとってiPad miniはほとんど情報収集オンリーのデバイスになっている)。

ここで注意したいと思っているのは、先ほどの「反射光」「透過光」の説が正しいとするならば、情報の受け方が受動的になっており、批評的に見れていない可能性が高いこと。

3Dでモデリングされた空間を見る時に、画面の中に確かに空間としてありそうなのだけど、見えているようで実は何も見えていないような……表現しがたい「気持ち悪さ」がある。もしかしたら、自分がどう頑張っても情報を批評的に見れないから、気持ち悪いのかもしれない。その気持ち悪さを感じられるのは私が仕事で空間を取り扱う、つまり慣れているからであり、逆に、仕事ではなく趣味で得ている情報はかなり受動的に受け取っているかもしれない。

そう考えると、すこし怖い。


トラベラーズノートの復活

そのようなわけで、アナログの価値を最近あらためて見出している。一時は使用頻度が下がっていたトラベラーズノートも、今は毎日使っている。

朝、仕事を始める際も、まずは紙にペンで書くようにしている。いきなりモニターに向かうと、画面上の情報量が多すぎて(かつ自分が受動的に受け取ってしまうから)、ペースが乱されるような気がする。

ただどうしても背部の金具が邪魔で書きづらいので、思い切って外してしまった。ゴムで閉じることはできなくなったけれど、あまり不便しない。

また、「測量野帳」もスリムで持ち運びやすくて、引き続き便利に使っている。

一方で「モーニングページ」の習慣は、忙しくて続かなくなってしまった。かわりに「五年日記」を書き始めて、こちらは半年ぐらい続いている。

・・・

というわけで正直、今、iPad Proはほとんど使わなくなってしまった。あまりスタイルに固執しない性格なので、それでもまぁ良いかと思っている。

私にとって大切なのは「本当にやりたいことを実現できる手段をとり続けているかどうか」であり、アナログかデジタルかという議論は本質的ではない。

また、その手段の「効率がよいかどうか」という観点もひょっとしたら二の次なのかもしれない。「タイムパフォーマンス」という言葉が流行っているようだが、時間を節約することよりも、長い目で見た際に生まれる結果を考えていく必要があると思う。

これは果たして、「量より質」という単純な話なのだろうか。情報という分野については以前から興味があるので、引き続き考えていきたい。




編集後記

ここに書いたような少し抽象的な話を考えることが私の趣味でもあります。ただ最近は時間が足りず、考えても細切れになり、文章化するに至っていません。

言うまでもなく子育てに時間を取られているからなのですが、そういう実体験を書きたくても、ネガティブな発信になりそうで、どうしたものかと悩んでいます。私自身、子どもを産むことにかなり消極的だったので、自分の言葉が誰かの考えを左右する可能性を思うと「下手なことを書けないな〜」と尻込むのです。

でも今の自分の実情を糸口に、日本の少子化や働き方の問題点も考えたいな。という気持ちもあります。

なんとかポジティブな結論に持っていけるように、書きたいところです。




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