宇宙へ抱く恐怖
■アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』
チューリングはこう指摘した。もし人間が機械とある程度長い会話を――タイプライターであれマイクロホンであれ手段は問題ではない――持つことができ、返事が機械のものなのか、それとも別の人間から出ているものなのか区別できないときには、その機械は、いかなる常識的な定義に照らしあわせても、思考しているのである。 ー 148ページ
超有名なSF映画『2001年宇宙の旅』。実は観たことがない。あまりに有名なのでなんとなく観た気になっていた。
小説と映画という選択肢がある場合には(ノベライズでない限り)基本的には小説を先に読みたい派だ。映画を観てしまうとイメージが固定される。ビジュアルに関する想像の余地を楽しみたいから、まずは文字情報だけを追いたいと思っている。
前置きが長くなったけれど、そういうわけで小説を読んだ。
◎
まず一言。これが書かれた1968年時点は、人類はまだ月面着陸すらしたことがなかった。にも関わらず、宇宙の描写はとても「リアル」だった。SFを読み慣れている人にしてみればそうでもないかもしれないが、「よくこんなに想像できるものだなぁ」と……素直に感心した。
ネタバレになってしまうので詳しく書けないが、物語は単に「宇宙に行っていろいろトラブルが起きた」というだけに終わらない。その中で、たくさんの問いが投げかけられる。
問いはいずれも難しく、答えが出るようなものではない。
例えば「ロボット(人工知能)に人格はあるのか?彼ら(彼女ら)は『思考』しているのか?感情はあるか?」というようなものだ。
冒頭の引用文もこの問いに関連している。
多くの人は、なんとなく「ロボットは思考しない」と考えているのではないだろうか。私は(うっすらとではあるが)そのように考えていた。理由を一言で説明するなら「ロボットは機械だから」。
▶︎ではなぜ、機械は思考しないのだろうか?
だって、機械の働きは数的処理に基づいていて、あくまで与えられた情報を処理する能力しかないから……
▶︎では「与えられた情報を(数的に)処理すること」と「思考すること」の違いはなんなのか?
……と、こんな風に考え出すと泥沼である。眠れなくなってしまう。笑
後半一気に物語はフィクション性が強くなる。それがけっこう好き。最近観た映画だと『インターステラー』はよく似ている気がする。オマージュした部分があるのかなと思ってしまうほど。映画も楽しみだ。
描写が細かいタイプの小説だけど、難しくはないので、宇宙好きな人にはぜひ読んでほしいなと思った。
◎
以下は個人的な話。私は昔から宇宙が好きだった。
しかしそれはただの好意ではなく、同時に底知れぬ恐怖があった。
子どもの頃、「宇宙には終わりがない」と教えられたときに、どうしても受け止められなかった。何度も想像して苦しくなり、想像するのをやめ、またしばらく時間を置いて想像して……その繰り返しだった。
「終わりがない」という概念を、未だ受け止めることができない。
クラークの小説に出てくるような信じられないような現象も、現実の宇宙では(という言い方もなんだかしっくりこないのだが)あり得るのかもしれない。あってもおかしくないのだろう。
だって……「終わりがない」世界で「あり得ないこと」なんてあり得るのだろうか?
ビッグバンや地球の誕生は奇跡だ、とも聞く。万に一つだか億に一つだかわからないけれど、ものすごーい偶然の積み重ねで私たちは生きているらしい。
しかし……私たちが死に、この地球が滅んでも、宇宙は無限であり時間は永遠なのだろうか?
かじった程度の知識しかないが、現在の学説では宇宙は拡大を続けており(えーとつまり、無限じゃないってこと??)、いずれ収縮に転ずるらしい。しかし、拡大とか縮小とか簡単に言うけれど、
宇宙の外側は何なのか?
というか、ビッグバンの始まり以前に、この世界に何があったのか?
「無」とは何なのか?
……こんなことを考え出すと正気を保てる自信がない。だから見て見ぬフリをして日々を送り、そして真実などわからないまま、死んでゆくのかなと思っている。
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