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「絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ」

■村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉』

「絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない」(P.220)

上巻に引き続き前置きが長くなってしまいそうだけれど、この作品に対する賛辞を並べる前に少しだけ書いておきたいことがある。

長い間、具体的にいうと10年近くの間、村上春樹という作家が好きだとは表立って言えずにいた。彼の作品を、長編・短編・エッセイ問わずほぼ全て読んでいるにも関わらず──である。

なぜかというと、彼にはアンチがすごく多いからだ。少なくとも私にはそう思えた。

たとえば、

◆ 私の両親は村上春樹を読まない(母は新聞で連載されていた『ノルウェイの森』を読んで嫌いになったらしい。かなりウブなひとなので無理もないかなと思うが)。
◆ かつての職場の人が揃って「村上春樹が苦手」と言っていた。文章が合わないらしい。私が村上春樹を読むと言ったら「よく読めるね」という反応をされた(まぁ、思い込みが激しいタイプの人たちではあった)。
◆ ノーベル賞のたびに村上春樹ファンの聖地が取り上げられてニュースになって無駄に叩かれているのを目にすると、正直うんざりする。

……というようなことが積み重なった結果、わざわざ「好き」と言うのが面倒くさくなってしまったのだ。特に二つ目の、職場での反応が大きかったかもしれない。「この人もアンチかもしれない」と思うと、いちいち探るのが嫌になったから言わなくなった。

だから「好き」と言わないでいるうちに、自分自身、好きなのかどうかよくわからなくなった。「村上春樹が好きだったのは二十代前半の私であって、今の私ではないのかもしれない」などと思いはじめていた。

すこし前に、好きな小説を十冊選んでみたことがある。(恥ずかしいので公開していないが)そこに、村上春樹の作品は一冊もなかった。

10年以上前にこの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ時には、好きな小説ベストスリーに選んでいた。にも関わらず、今はベストテンにも入らないんだ──人間の感性は変化するものだな、などと、考えていた。

ちょっと前置きが長すぎだけれど、そういうわけでかなり久しぶりに読んだこの作品(ちなみに村上作品を追いかけていなかったわけではない。『騎士団長殺し』も読んだ)。

上巻のレビューに「めちゃくちゃ面白いからつべこべ言わず読んでくれ」と書いた。それは一切間違っていない。自信がある。

ただ、それだけではなかった。

通勤電車で下巻のクライマックスを読みながら、泣くような場面ではないのに泣きそうになってしまった。涙をこらえていたら耳がツンと痛くなり、痛い耳と興奮が止まらない胸を抱えて帰った。

私が涙をこらえるほどに感動したのはストーリーというよりむしろ、この作品の出来の良さだった。

「出来の良さ」という言葉で「完璧さ」を表現したいわけではない。しかし、完璧でないことすらもひっくるめてこの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、あまりにも素晴らしい作品だった。あまりにも傑作だった。


なぜ傑作なのか。思うに、これは村上春樹という作家がもっとも上手に「自分を投影して描けた物語」だからではないか。

小説というものは個人の創作物である以上、作家本人の自己投影であることを免れない。

村上春樹はとりわけ自己投影が「強い」タイプだと思う。わかりやすく言えばワンパターンなのだ。主人公のほとんどが似たタイプの男性で、おそらく村上春樹自身のパーソナリティ+憧れで形成された人格なのだろう……というのは読者がみんな感じていることではないかと思う。

本作は村上作品群の中でも、自己投影が完璧に結実している作品だ。と私は感じた。主人公のキャラだけでなく、二つの世界のコントラストやたびたび登場する音楽と文学、まわりを取り囲む人物が発する意味深な言葉等を含めて、村上春樹という作家が「本当に描きたい自分自身」を爆発させることができたのではないか……

そう思えてならないほどにこの作品のエネルギーは凄い。彼の筆が、すでに作曲された曲を演奏するかのように走ったという勢いを感じる。でなければたぶんここまでの世界は生まれなかっただろう。

彼の中にはすでに世界が完成していて、それを言葉に置き換えるだけの「無理のない」創作だったのではないか。個人的にはそのように感じた。

脱ぎ捨てられた彼女の服は彼女自身より彼女らしく見えた。あるいは私の服だって私自身より私らしく見えるのかもしれない。(P.297)

村上作品はたいてい解釈が難しく、巷に解説本が出ていたりするほどなのだけど、私は「あの人物は◯◯だったのではないか」「あの出来事にこういう意味があったのではないか」という類の考察にあまり興味がない。

言葉にできない圧倒的な「何か」が残ったとしたら、それを「何か」のまま心に残しておけばいい。と思う。

だから内容には触れず、村上春樹という作家がどのような点で稀な才能をもっているかという考察だけ残しておく。あくまで個人的な分析にすぎませんが。


彼の能力を私は以下のように分類して捉えている。

(1)首尾一貫したプロット|論理的思考力
(2)独創的な世界と哲学性|想像力・創作力
(3)読ませる物語とディテール|観察眼とユーモア
(4)音楽のような文章|文章力

この四つ全てが人並み外れているという点で、彼はどう考えても凄い才能をもっている人なのだ。

(作家でもなんでもない私が偉そうに語るのもはばかられるのですが)上記のうち二つあれば立派に職業的作家として活躍でき、三つあれば突出した作家になれるだろう。と思う。

村上氏の場合たぶん一般的に評価されているのが(2)以降で、見落とされがちなのが(1)ではないかと思う。

彼は起承転結の「結」をガチッと締めることがあまりないので、論理的にまとまった世界を「描いていない」とみなされがち……だと思うし、それゆえにアンチや「わからない」人口が増えてしまっている気がする。しかし彼は「あえて締めていない」だけで、締め方自体は知っているのだ。(と思う。)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読むと、彼の論理的な構想力・構成力が尋常ではないことがわかる。全く異なる二つの世界を並行して描きながら、一切破綻していない──どころか、二つの世界が足し算ではなく掛け算のように作用し合っているのだ。

「この街の安全さ・完結性はその永久運動と同じなんだよ。原理的には完全な世界なんてどこにも存在しない。しかしここは完全だ。とすれば必ずどこかにからくりがあるはずなんだ。見た目に永久運動とうつる機械が何らかの目には見えない外的な力を裏側で利用しているようにね」(P.66)

こんなものを描く人間がいるのかと、軽く絶望してしまったほどだ。

複雑な計算をこの長きにわたって行い、かつ、ページを捲る手を決して止めさせない。これは言うまでもなく(3)(4)の能力も桁外れだからである(彼の文章の上手さやユーモアなど私がいちいち説明するまでもないと思うので割愛する)。

そうは言っても、執筆当時若かったせいもあってか(30代後半)、すこし「くどい」と思う瞬間もある。特有の比喩も多用されすぎている感は否めないが、そんな細かいことはまぁ揚げ足取りみたいなものだろう。

青さも込みで、作品として完成していると思う。


こんなことを言うのも、変な話だけど──

もしこの作品を書いたのが海外の作家だったら、間違いなく私はもっと堂々と「好き!!!」と言えたと思う。

残念な虚栄心でしかないのだが、まだ消えないわだかまりを少し抱えつつそれでも、この作品を与えてくれた作家に感謝の気持ちでいっぱいだ。

絶望なのかもしれない。ツルゲーネフなら幻滅と呼ぶかもしれない。ドストエフスキーなら地獄と呼ぶかもしれない。サマセット・モームなら現実と呼ぶかもしれない。しかし誰がどんな名前で呼ぼうと、それは私自身なのだ。(P.234)

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