哲学というむき出しのプレゼント

■アルトゥル・ショーペンハウアー『幸福について―人生論』


本の感想を書く前に、記事タイトルの言わんとするところを書いておきます。

ずっと「哲学」というものに苦手意識があった。おそらく多くの人が感じるのと同じく、「難しい学問」だというイメージが拭えなかった。それだけでなく「答えの出ない問題を延々と考えている学問」とも思っていたので、数学のようにハッキリと答えの出る問いが好きな自分にとっては、関わるとストレスが溜まるだろうなぁ……という恐怖心もあった。

加えて、「哲学者はたくさんいてみんな違うことを言っている」気がして(事実そうなのだけど)、そんなにたくさんの正解があるなんて……というか正解がないなんて……耐えられない!自分で考えようにも、こんなに多いと読むそばから忘れていくに決まってる!無理!と思っていた。笑


この『幸福について』という本は、ショーペンハウアーの別の著作がわかりやすかったから読んでみようかなと、特に哲学書という意識もせずに読んだ。

読んでみた感想は、部分的には賛同できるけど別の部分では賛同できないな、という感じだった。そもそも他の哲学を知らないから比較はできないけれど、「この考え方はないな」という思想がある一方で「ここはいいなぁ」という言葉もあった。

あぁそうか。一人の哲学者の意見でも、賛同できるところとできないところがあるものなんだな。というのが、単純な発見だった。


そこでふと思う。もしかして、哲学書というのは他の本(文学)とそう変わらないんじゃないか?と。ただ個人の考えを伝えるための文章に過ぎないのに、学問とか正解とかそんな考え方をするから難しく感じられてしまうのではないか??

例えばカポーティでも太宰治でもいいのだけど、作家はみな、自分の思想を「文学」という形で提示している。私たちがそれを読んで面白い・好きと感じるのは、その思想に(無意識のうちであれ)共感しているからだ。読めば読むほど共感してハマる作家がいれば、いくら読んでも共感できない作家もいる。同じ作家でもこの作品は好きだけどこっちは嫌い、というのもある。

(これは文学に限らず広く芸術一般に当てはまるのですが、話を単純化するため文学に限定します。)

文学に潜むそういう作家の思想と「哲学」は、遠くないのかもしれない。相違点はといえば、文学は思想を「物語」にくるんで差し出してくれるのに対して、哲学は思想が何にも包まれず「むき出し」の状態、ということ。

だから哲学には、ラッピング(物語化)しないプレゼント(思想)をそのまま突きつけるような“どぎつさ”がある。きれいにラッピングされてツリーの下に並んだプレゼントを眺めると心が躍るけど(それが文学のあり方)、哲学者はラッピングしないプレゼントをぼんぼんと並べてしまう。あからさますぎてちょっと怯む。笑

でもそれも一個人のプレゼントにすぎないんだと思った。私たちにはその哲学を文学と同じように選ぶ権利があるし、共感したりしなかったりする権利もある。去年のプレゼントはすごく素敵だったけど今年はイマイチだねと思ったっていい。

なので、とりあえずはナントカ学派とか考えずに「ふーん、ショーペンハウアーさんはこう思ったんだー」程度のノリで読むと、わりと楽だ。「幸福というものは自己の内にあるのだから他者との関係で規定されるものはすべからく云々…」とか言ってるのを、覚えようとか芯まで理解しようなどと無理しなくていいんじゃないか。それはあくまで個人の考えであり、それ以上でも以下でもない。「じゃあ次はソクラテスさんの考えが面白そうだから読んでみよ〜」という気楽さがあれば、哲学のとっつきにくさがだいぶ軽減するように思う。

結局、私がミステリーで旅してきたように、アガサ・クリスティーから読み始めて次はチャンドラーを読むか、ポーが元祖らしいから読んでみよう、いやコナン・ドイルが面白いらしい……というのと大きく違わない気がする。

あとはその「せっかくのクリスマスなのにプレゼントのラッピングすらしてくれない」……という馴染みのない人種に対して、自分がだんだん慣れていって、対話できるようになればいいのかな。だいたいは気難しい人が多そうなので(笑)理解できないときもあるだろうけれど、別に無理しなくてもいいや。そんな風に思った。

本題からそれてしまったけれど、この本について。(ちなみに表記が「ショーペンハウアー」となっていて、『読書について』の「ショウペンハウエル」と違うけれど、今回は本に合わせて前者で書きます。)

これを読むと、ショーペンハウアーが「厭世哲学者」と称されるゆえんがめちゃくちゃわかると思います。笑 書かれていることをすべて真に受けて実行したら一体どうなっちゃうのかしら、という不安がよぎるくらい厭世観に溢れている。

がしかしただ世を憎む人ではなくて、それなりに(と言うと怒られそうだけど)思考した結果の理論なので、説得力はあります。厭世という言葉でイメージされる根暗な感じではない、むしろサバサバしている。

私が一番いいなと思ったのは、最初のほうの

こういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。

という話と、それに続いて「運動すると朗らかになるよ」という部分。結局のところ幸福かどうかを判断するのは自分の主観であり、朗らかな人の主観は何事も前向きに捉えられるので、それだけで幸福なのだという話。当たり前のことだけど、改めて言われるとその通りだなぁと思う。


そして一冊を通して語られているのは、幸福のためには孤独であれ、自分の精神世界を楽しめ、ということ。

ショーペンハウアーは幸福を、外部的要因(財産の寡多や世間の評判など)によって規定されるものではなく、主には自分自身のあり方によって規定されるものと考えている。さらに幸福は、積極的なもの――つまり自分の手で掴みにいくもの――というよりは、消極的なもの――「不幸がない」状態が幸福である、というような――と考えている。人と交わることは煩わしさ(不幸)を生む可能性が高いから、人と交わるのはやめろ、と言う。退屈を社交で紛らわすのではなく「自己の精神的な能力を磨きあげて内面の富を楽しむ(p.58)」状態こそが幸福だと。まぁなんとなくそういうことを言っていました。

私は基本的に常に一人なので(汗)言いたいことはよくわかるんですけど……どうも読んでいると「精神」を「知性」とニアイコールで語っているように思えて、それは違うかなぁと。つまり彼は、優しさだったり人と交わる喜びだったり、そういうあったかいものを肯定してくれない。以前『アルジャーノンに花束を』の感想でも書きましたが、知性や知的好奇心に溺れる状態を、私はあまり肯定的に捉えられない。だからショーペンハウアー先生の「幸福について」の根幹部分には残念ながら疑問が残った。

でも人間としては共感できる部分も多い。物事を割りきって考えていて、クヨクヨしない人なんだろう。例えば「過去にとらわれず現在だけを生きろ」「失敗を悔やむな」「人の言葉に惑わされるな」「よく寝ろ」「運動しろ」というような考え方には共感できる。

それから『読書について』の中で「比喩が上手いというのは物事を理解していることの証だから、比喩は大切だ」と言っていて、その通り彼の文章は比喩が多くて上手いです。有名な「ヤマアラシのジレンマ」もそうだし、

富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。名声もこの点は同じである。 

これもすごくいいなぁと思った。


他の思想家の言葉もたくさん引用されているので、気に入ったものを書いて終わりにします。

「幸福は自己に満足する人のものである」(アリストテレス)
「われわれはわれわれのものを他と比較しないで喜ぼう。自分以上の幸福を見て楽しむ者は、決して幸福になれない」(セネカ)

アリストテレス先生も、良い言葉たくさんあった。それと幸福論といえばアランが有名ですね。いろんな人の頭の中をドストレートに覗けるという意味で、哲学は面白いのかなぁと、今はそんな気分です。

そもそも論だけど、別に自分が不幸だと思わないし人生に迷ってるわけでもないので、幸福論を欲してないのかも?笑 ずっと興味があるのは死と宗教です(暗い)。あの死刑執行の日からもうすぐ2年。なぜ人は死刑を求めるのか、人が人を殺すことはどこまで正当化できるのか、なぜ人は宗教に救いを求めるのか、神という存在は人間にとってどのような意味があるのか。


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