「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」

■ショウペンハウエル『読書について 他二編』


本屋でみつけ、気になって購入。面白かった!薄い本だけど、一語一句に無駄がないので、ななめ読みはできない。

この本について感想を書くのは恐ろしい……。何を書いても、天国(?)のショウペンハウエル先生(??)に怒られそう。小言というより誹謗中傷に近いような辛辣な言葉がバシバシ並んでいて、読みながら縮み上がってしまう。

けれども、やはり面白い。そして素晴らしく簡潔で明瞭で無駄のない、本当にお手本のような文章だった。読書好きな人だけでなく、文章を書くすべての人が読むべき本だと思う。


『思索』『著作と文体』『読書について』の三篇が収録されている。示唆に富む内容ばかりで、書こうと思えばいくらでも感想が書けそうだけど、そんなことをしていると天国のショウペンハウエル先生に怒られそうなので、それぞれ最も印象深かった部分だけを引用し、簡潔に終わらせます。

著者たる者は、読者の時間と努力と忍耐力を浪費させてはならない。(『読書について』)


『思索』

多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けるとばねは弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

『読書について』と名のつく本でありながら、いきなり多読を批判しまくっている。

本を読むという行為は、情報を受動的に得る行為である。それは誰かが考えたことをなぞっているだけで、思索とは違う。思索とは、自らの頭で考えることだ。だから、ちゃんと自分で考えろ。というような話です(先生に「勝手にまとめるな」と怒られそうで怖い)。

多読批判されてシュンとしちゃうけど、まぁ人生長い目で見れば波があって、読みたいときはガーッと読んで、読みたくなくなったらじっくり考えればいいかな、というのではどうでしょうか……先生……汗

あとは、哲学的多読(思考を他人の言葉から得ようとすること)は確かに受け身すぎるかもしれないけれど、良い文章を吸収するという意味での筋トレ的多読は、一定の効果があると思っている。


『著作と文体』

だれにもわからないように書くほどたやすいことはなく、逆に重要な思想をだれにでも自然にわかるように書くほどむずかしいことはないのである。
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。

ここに書かれていたことは、私も昔から同様に感じていたので、非常に共感できた。

深く理解していることならば、誰にでもわかる言葉で説明できるはずだ。変に難しい単語や装飾を使ったり、熟語を多用して無理に文章を縮めたり、という「難解に見せかけてるだけで中身がない」文章はクソくらえ……と、そんなテンションで書かれている(本当に)。

とりあえず先生がドイツ人の文章をめちゃくちゃ憂いていることと、中でもヘーゲルが大嫌いだということは、よくわかりました。笑

しかしそうは言っても、専門家による専門家のための文章は、平易な言葉だけで書くわけにはいかない。一般読者と専門家ではもともとの知識量が違うので、書き分けしてもよいと思う。が、自分の理解の浅さを誤魔化すような難しい文章が非難されるのもわかる。


『読書について』

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

新刊に飛びつくな。古典を読め。これも常々思っていたことなので、とても共感した。

時を経ても評判の良い本は、風雨にさらされてなお建ち続ける建築のようなもので、「時間に耐えた」という事実だけでも評価できると思う。ふるいにかけられている、というか。

だから個人的には、新刊コーナーから本を買うことってほとんどないし、芥川賞も直木賞も本屋大賞も「このミステリーがすごい!」も、全部スルーしてしまう。本当はもっと柔軟に新しい人を知れたらいいよなぁと思うのだけど、残された時間と読み切れていない古典を思うと、それができない(あぁ、頭がかたい)。


哲学書は難しくて挫折するイメージしかなかったけれど、とても読みやすい文体だったので、『幸福について』『知性について』『自殺について』も読んでみたいです。

紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。(『読書について』)


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