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クイーンの魅力は〈意外な真相〉ではなく〈意外な推理〉

■エラリー・クイーン『Zの悲劇』

ドルリー・レーンが探偵役をつとめる
『Xの悲劇』
『Yの悲劇』
『Zの悲劇』
『レーン最後の事件』
は通称「レーン四部作」とされ、その一連の流れの中にも何やら仕掛けがある──という噂だ(まだ私は知らない)。

ミステリーをほとんど読んでいなかった頃、『Xの悲劇』と『Yの悲劇』が人気で、特に後者の評判が良いらしい。と、様々なレビューで知った。

『Zの悲劇』はそれらに比べて、あまり名前が挙がらない。でもまぁここまで読んだし……「レーン四部作」に何が仕掛けられているか知りたいし……という程度で、期待せずに読んでみた。


しかしこの『Zの悲劇』、けっこう面白かった。

おそらくすでに何冊かエラリー・クイーンのミステリーを読んでいて、“クイーンらしさ”に慣れたのがよかったのだと思う。

私がはじめて読んだのは『Xの悲劇』だった。

上の記事タイトルにもあるように「クイーンの魅力は論理的推理だ」と感じたし、今もそう思っている。これに異を唱える人は、まずいないと思う。

コナン・ドイルやアガサ・クリスティのようなミステリーと、クイーンの書く(ここはあえて“描く”としない)ミステリーは、私の中ではまったく別ジャンルだ。

クイーンのミステリーには、人間ドラマも、驚きの動機も、目新しいトリックも、なんなら感動も、たいしてない。そこにあるのはただひたすらに、推理。推理するためのストーリーだ。


「論理的な推理」というのはつまり「他の可能性がなくなった分かれ道をどんどん進んでいくこと」と言い換えてもいいだろう。

↑のような本を読んでみるとよくわかるのだが、論理学は用いる言語の「用法」に非常に厳しい。例えば「すべてのA」はAに関する100%を意味し、「AならばB」は100%の確率で「A→B」に向かう矢印を意味する。

同様に、クイーンの推理では、分かれ道を進むときの「ならば」は100%を意味する(……とまで現実では言えないので、99%ぐらいになるけれど)。

そのような厳しい論理学であるが、言語の「内容」にはとても寛容だったりする(このギャップが魅力的でもある)。言い換えると、論理学は「内容」をあまり扱わない、内容にあまり興味がない学問だと私は思っている。

同様に、クイーンの推理では、作者自身が語ろうとする内容にそこまで興味がないのかも、と感じられる。

『Zの悲劇』は、クイーンの論理的推理のこうした二面性──用法の厳しさと内容の寛容さ──が特にわかりやすく現れていた。「動機とかはさ、まぁなんだっていいから、キッチリ100%の分かれ道で進む鮮やかな推理を見せてあげるよ」というわかりやすいモチベーションが感じられた。


しかし、きれいに分かれ道を進むだけなら評価されるミステリーにはならないだろう。

解説に書かれているように、クイーンは「〈意外な真相〉ではなく〈意外な推理〉」を展開させる作家なのである。

整然として緻密で、論理的に厳格な推理でありながら、その組み立てが独創的であること。だからこそ鮮やかで、胸が空くような気持ちよさがある。

そこにある意外性は、ポアロがジャジャーンと明かすような「まさかこの人が!」「まさかそんな動機で!」という真相ではない。真相に意外性がなかったとしても、その推理の独白で、私たちはポアロ以上の鮮やかな語りを聞くことができる。

クイーンは彼らとは別ジャンルだ。良くも悪くも「本格ミステリー」なのだ。好き嫌いはあるだろうけれど、同じ視点で評価していては楽しめない。

今になってやっと、エラリー・クイーンの真価がわかった気がする。


ちなみにドルリー・レーンという探偵があまり好きではなかったのだが、『Yの悲劇』から10年たってちょっと丸くなったのか衰えたのか、じいさん味を増したレーンは以前より好きになれた。

人って、弱さを見て初めて好きになれるのかもしれない。

頭脳の働きというものに、わたしはそこまでの愛着を持っている。 ー 346ページ

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