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「そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演技している」

■ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』

そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演技している。生き甲斐とはそういうものではないか。自分自身でありながら自分にあらざるものを掴みとることではないか。(P.235/解題)

記憶している限り、はじめてきちんと読んだシェイクスピア。きっかけはもちろん、先日読んだ『レーン最後の事件』だ。

以前から「いずれ読まねばならない」と気になりつつも、戯曲という形式や古めかしい言葉が読みにくそうに感じられ、手を出せずにいた。ようやく読んだ『ハムレット』は(一冊目にこれを選んだ理由はとくになく、一番有名な気がするから……という程度)、予想したよりも読みやすかった。確かに文語調ではあるけれど、筋がわかりやすいので苦労せず読める。

読んだ感想は、「なんて悲劇なんだ!」という感じ。笑

「悲劇」って、もう少し違うイメージを抱いていたのだ。例えば『フランダースの犬』とか『火垂るの墓』とか『世界の中心で、愛を叫ぶ』のように……「すごく悲しくて、すごく可哀想で、涙が止まらないんだけど、なんだか心が癒される」という類のドラマだ。私は、思いっきり泣きたい時にそういう映画やアニメを観たりする。

しかし、『ハムレット』を観てもたぶん泣けない

現代人的な感性がシェイクスピアの時代と違うからなのか、それとも、そもそも『ハムレット』は「泣ける」類いの悲劇ではないからなのか。ちょっとわからないが、もう悲惨すぎて逆に泣けない。苦笑

というわけで、泣いて感動してスッキリ、という悲劇ではないけれど、物語としてテンポがよく面白かった。教養として……という意識もあるが、ひとまず四大悲劇(『オセロー』『マクベス』『リア王』)は読みたいな。

なるほど、こういうものなら目にも見える。そうしたお祭り騒ぎなら、誰にもやれましょう。この胸のうちにあるものは、そのような、悲哀が着て見せるよそゆきの見てくれとは、ちがいます。(P.21)

さてさて、今回はじめてのシェイクスピアで感動したのは、その本文よりもむしろ「解題」「解説」「シェイクスピア劇の演出」と題された後半部分である。

古い書物を読むときは解説がものすごく面白い、というか、解説を読まないとその真価を「読みきれない」ことが多いのだけど(アリストテレスやプラトンでも感じた)、『ハムレット』も同じだった。

また、単純に「演劇」「戯曲」という未知の世界に触れるという意味でも「へー!」「なるほど!」とワクワクして読書した。後半部分でまた一冊読めた感じ。

面白かったポイントは大きくは3つある。


◆ハムレット=演じる男

そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演技している。生き甲斐とはそういうものではないか。自分自身でありながら自分にあらざるものを掴みとることではないか。(P.235/解題)

冒頭で引用した部分はここに関連している。

『ハムレット』の筋はちょっとわかりづらい。その原因は、ハムレットという男の性格がコロコロ変わって捉えにくいことにあるようだ。「結局ハムレットってなんなんだ」という点でさまざまな解釈があるようだけど、この「解題」では「ハムレットは演じる男」と説明している。

上の引用のように、人間たるものはみな「そのもっとも劇しい(はげしい)瞬間」においては、演技している──。なるほど。単純な、当たり前のようなことでもあるが、あらためて書かれると面白くて噛み締めてしまった。


◆演ずる者は、性格をつくろうとするな!

ハムレットの性格がその言動だけから判断できぬならば、軽々にハムレットの性格などを規定せぬがいいのです。が、それはハムレットに性格がないということではない。むしろ、ハムレットが一つの性格として生きているということを意味します。ハムレットはハムレット以外のなにものでもありえぬように立派に生きております。(P.262)

演劇事情はよく知らないのですが、現代の演劇では登場人物の性格に一貫性をもたせようとしすぎている──と解説(翻訳)の福田氏。

性格なんて支離滅裂で一貫性がないのが当たり前なのに、「この登場人物はこういう性格だからこう演じよう」という考え方をしてしまう。それがよろしくない。という話が、これまた「へぇ〜!」とすごく面白かった。

では、どう演じればいいのか?というと、あくまでシェイクスピアが場面場面で描いたとおりのハムレットを、素直に届ければいいらしい。その裏で「ハムレット」という人物をこしらえたりせずに、あくまで行動を演じること。それがたとえバラバラなものでも、シェイクスピアが描いたものを、勝手につくりこまず、そのまま観客に届けるべきだ、という。

演劇のことはよくわからないながらも、上記の引用には一般論として頷かされる。


◆翻訳は、意訳でもよい

声のひびかぬ言葉をつらねてせりふの生動感を殺してしまってはならない。(P.230)

「翻訳は、意訳でもよい」というまとめ方自体が相当な意訳かもしれないが、要するにそういうことだと思う。

より丁寧には、上の引用のように戯曲の場合に大切なのは「せりふの生動感」なのであって「原文に忠実なこと」ではない。いくら原文通りに訳しても、これが演劇のために書かれる台本である以上、リズムが死んでいたらおしまいなのだろう。

これまた今までの読書にはなかった視点!


今のところ演劇にさして興味はないですが、以上のような視点をもってシェイクスピアを読み進めてみたら、すごく楽しそうだなと感じている。総合的に、実りの多い読書でした。


やめよう、オフィーリア、このように字数の辻褄を合わせたり、苦しい想いを態よく型にはめて歌ったり、もともとそうしたことの出来る人間ではないのだ。ただ一言、愛する。誰よりも、何よりも。(P.66)

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