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子育てがもたらしてくれる時間

「子どもができたからといって子育てのことばかり書く人間にはなりたくない」

──そんな見栄があった。正直、出産する前は、子どものことばかりを話題にする人にちょっと閉口すらしていた。

しかし実際に経験してみると、子どもという存在がもたらす生活や意識の変化は、見て見ぬふりなどできないほどにドラスティックだった。

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私は、子どもを積極的に望んでいたわけではなかった。むしろ子どもを育てる人生に不安があった。

「自分の自由な時間がなくなるのではないか」
「経済的にも我慢を強いられる人生になるのではないか」
「キャリアが止まってしまって仕事は大丈夫なのか」
が主な理由だった。

私が想像していたのは「自分のことを我慢して辛いけれど、子どもがすごくかわいいから耐えられる」という人生だった。Twitterやネットニュースなどで流れてくる愚痴や不満を眺めていると、そうとしか思えなかった。

でも、違った。少なくとも私にとっては、この想像が外れたと感じている。

たしかに自由な時間は減る、お金も減る、仕事も止まる。けれどそれらがイコール不幸や貧しさではないと知った。

一言でいえば「子育てという制約があるからこそ、生き方を工夫できるようになり、結果として人生が豊かになるのではないか」と感じている。

まだ子育てを始めて何週間という人間に、何がわかる!……と怒られるかもしれない。けれど今はこの体感を、そのまま素直に書き記してみたい。

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出産以前に頭の中にあった「子育て→我慢」という方程式は、つまりは

・時間がたくさんある=豊かで楽しい人生
・お金がたくさんある=豊かで楽しい人生
・仕事が中断されない=充実したスキルアップ

という方程式に基づいていたと思う。

特に私は「時間の豊富さ、自由さ」に囚われていた。何時間も自分の都合で読書に没頭できたり、思いつきでぱっとショッピングに行けたり、カフェでまったりしたり……そういう生活こそが幸福の一要素だと思っていた。

たしかにそういう生活の楽しさは否定できない。

でも──少し考えればわかることだったけれど──財産がありさえすれば幸福なわけではないのと同じように、時間の有無がすなわち幸福度に比例するとも言えないはずだ。

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子どもが小さいうちは、自分の時間が極端に減る。常に子どものペースに合わせなければいけない。しかもそのペースはほとんど予測もできない。ちょっと外に出たくても放り出して行くわけにはいかない。妊婦と違って物理的に分離してはいるのだけど、ほぼカンガルー状態の生活だ。

でも、だからこそ、私は必死で時間を作ろうと頑張るようになった。


まず家事のメインである料理。買い物にも気軽に行けないので、宅配を利用したり休日に夫に買い出しを頼む必要がある。そのために、一週間分の献立を事前に用意するようになった。さらにそのために、料理のレパートリー(できればレシピを暗記し、さらに美味しく作りたい)を増やす必要性を感じて、目下一人でYouTubeを見ながら修行している。で、子どもがいつグズったり起きてしまうかわからないから、とにかく朝イチから時間のある時にどんどん料理を仕込み、できる作業は早めに済ませるようになった。

私は18歳から一人暮らしをしていたし、夫との同棲・結婚生活も長かった。それなのに、レシピを見ずに完璧に作れる料理なんて一つもなかった。一日の中での計画性もまったくなかった。週末作り置きも面倒でやらなかった。別に頑張る必要がなかったから、無限に時間があっても全く努力できなかったのだ。

今は、この努力が、目的としていた「自由時間の捻出」だけでなく「料理の腕を上げる」「美味しいご飯が食べられる」「家族に喜んでもらえる」「健康になる」「食費が抑えられる」等々各方面に大きな効果をもたらすことに気づき、かなり燃えている。

大変と言えば大変なのかもしれない。
でも、嘘偽りなく、楽しい。
自由な時間も少しずつ増えてきている。

料理は家事(あるいは子育て)のほんの一部でしかなく、実際には毎日の生活リズムの立て方から細々とした片付けまで、そして本来はメイン(?)である「子どもとの接し方」についても、たくさん努力すべき項目がある。ある時はぶっつけで試し、ある時は頭で思考し、少しずつ改善していく。

毎日毎日、努力しなければならない日々だ。
でもその分、毎日毎日、成長していると思う。

こんな風に胸を張って「私は成長しています」と言えるのはいつぶりだろうか?

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──私は、子育てとは、「子どもが成長する横で自分が我慢をする日々」を意味すると思っていた。でも実は、「子どもが成長する横で自分も成長する日々」なのかもしれない。いや、そうでありたい。

そんな日々が、すっかり手のひらを返したように、楽しい。

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昨日、モンテッソーリ教育(※まだよくわかっていない)で使うというモビールを見つけた。ちょうど今あったらいいなという時期。販売もされているようだが、丁寧な型紙が載ったサイトがあった。

もともと細かい作業が好きなので、作ってみたいなと思った。がしかし、小さな子を連れて材料を買いに行くのはかなり大変。「100円ショップで買えます」と書いてあるが、100円ショップは電車に乗らないと行けない。車もない。ベビーカーすらまだ買ってないのだ。

……なんとか家にあるもので作れないかと考えた結果、夫が飲むプロテインを買ったときの空き箱を発見。表が黒色、裏が白色だから、切り出してボンドで組み立てればうまくいくかも。試しに切り出してみるとなかなかいい感じ。

モビールに欠かせない細長い棒はどう頑張っても家にみつからない。諦めかけたが、試しにコピー用紙をくるくると丸めてみたら割り箸程度の強度が出て、驚いた。吊るすにもベビーベッドとかなんとかジムとかないのだけど(うちはベビー用品がかなり少ない)、IKEAの穴あきスツールに結びつければ、子どもの目線にちょうどよさそう。

…という感じで本来のレシピとは若干違うけど作れた

自分で作っておいて、感動してしまった。

以前の私なら、というか子どもという制約がなければ、確実にネットショッピングに走っていただろう。でも、家を出ず、お金を一切かけず、作れた。そこで求められたのは、手先の器用さ云々というスキルよりもむしろ「大きな制約が課されている中でどうすれば実現できるか」を考える、問題解決力だったのかもしれない。

──こんな風に工夫を強いられたのなんて、一体いつぶりだろう。

子どもをあやしながらローテーブルで作業していたつもりが、夢中になって作ってしまい、気づけば子どもは爆睡していた。

子どものための工作なんてしち面倒そうだと思っていたのに、どうして夢中なんだろう。自分の心境の変化にも追いつけずなんだかよくわからないけど、まぁいいやという気分。

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今は、仕事ができない時間をあまり焦っていない。

私は今、料理のレパートリーを増やして料理上手になりたいし、家事を効率よくこなしたいし、子どもとも全力で触れ合いたいし、子どものおもちゃや洋服も作りたい。

その全ての時間が巡り巡って自分を高めてくれるような気がしているから、一年や二年仕事を休んだって別にいいやとすら思う。

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こんな風にnoteを書き殴っていてもさっぱり起きないよく寝る子なのは、もしかしたら幸福というより、ただの幸運なのかもしれないけれど。

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