本を読んでから見える世界について
どうして本を読むのだろう、と考えていた。
「知識を得るため」という説明が一番わかりやすい。
少し別の言い方をしてみて、「何かに対する理解を深めるため」とも言えるかもしれない。
もしくは「単純に、楽しいから。面白いから」という理由もあるだろう。
──私が個人的にしっくりきている説明は、
「新しい視点を得るため」だ。
例えば、今目の前にあるこのボールペン。もしも今『ボールペン物語』という本を読んだとしたら、私は、
ボールペン発祥の地、
ボールペンの歴史、
ボールペンの製造方法、
ボールペンの年間販売本数、
ボールペンのトリビア
……
といった情報を得ることだろう。中には予想外に感動的なエピソードもあるかもしれない。そして読み終わる頃には、目の前のボールペンを見る目が少し変わることだろう。フィクションでもノンフィクションでも同じだ。
読む以前と読んだ以後で、自分の「目」が変わる。
新しい「目」で見る世界は、昨日とは違う。
それが楽しくて私は読書をしているのだと思う。
自分に何か新しい領域のビジネスができないだろうか、と考えはじめてから、もうすぐ一ヶ月が経つ。当初はとってもグッドなアイデアかのように思えた閃きも、深く考えれば考えるほど困難で、簡単に形にできるものではなさそうだ。
それでもこのアイデアを一過性のものにしたくなくて、本気で仕事にするべく色々な角度から検討している。
慎重に練らなければいけないと考えているのは「誰に」「何を」「なぜ」のあたりだ。同時に「自分が得意なことは何か?」という疑問の答えも探している。
・・・
──私は、どちらかと言えば玄人よりも素人の視点に立つことが得意なのではないか。と自分で分析している。難しい単語を並べた文章よりも、誰にでも(概ね中学生以上なら)読める平明な文章に、大きな価値を見出している。
世の中にある問題の根っこは常にジャンルレスだ。丁寧に丁寧に因数分解していけば、絶対に、中学生でも理解できる単語で説明できる。だから専門用語を使う必要がない。と昔から考えている。
そもそも、なぜ説明したいのか?と問われると、よくわからない。それは私にとってゲームのようなもので、何につけても「いかにして説明するか」を考えてしまう癖がある(だから時々、求められてもいないのに説明しすぎてしまう)。
哲学畑から教師の道に進んだ両親の影響もあるかもしれない。私自身は両親に何かを「教えられた」という記憶が全くないのだが、強いて言えば彼らの「背中を見て育った」のだなと、自分が親になってから痛感している。
私の母はとにかく「なぜ」ばかり考えている人だった。社会問題だけでなく、スーパーで売られる商品の価格設定や、ご近所さんの人間関係まで、何でもかんでも理由を考え推測していた。以前、里帰り出産のために実家で過ごした際、あまりにもAmazonを多用する私に呆れた母は「Amazonドライバーは1回の配送につきいくらもらえるのか」を計算しはじめた。ネットで調べればわかるような数値を頭だけで計算するのが、彼女の趣味である(……こう書いていると自分もそっくりで嫌になってしまう)。
一方、寡黙な父の言葉はもはや文章にしか残っていないが、もう少し純粋哲学的に様々な疑問を抱いて生きていたらしい。
「疑問を抱き、問題の根本を探ること」。
それが彼らの基本姿勢であった。
そして、私も同じなのだと最近感じる。
──育った環境は、もしかすると想像以上に大きな影響を、人に与えるのかもしれない。
・・・
建築という文化を「本」を切り口にして切り取りたい、と考えている。けれどもその際に「誰に」「何を」「なぜ」発信するかが定まらず、悩んでいる。
社会に対する問題意識も当然必要だが、それと同じくらい、私の得意な手法で切り取ることが大切なように思える。そして私の得意な手法は「疑問を抱き、問題の根本を探ること」ではないか。と、少なくとも今は考えている。
プラトンの『メノン』を読んだ時に印象的だったことがある。ソクラテスは「俺が教えてやるからそこに座ってろ」ではなく「一緒に考えようじゃないか」という立ち位置だった。その並走感が私の理想なのかもしれない(また逆に言えば、私の言葉や人柄には「俺が教えてやるからそこに座ってろ」という強い引力はないのかもしれない)。
1.本を読むと、新しい「目」が獲得でき、昨日とは違う世界が見える。
2.世界は、建築で溢れている。
そのことと、このことは、何かしら関係があるはずなのだ。
であるならばその関係性をほぐすことで、より多くの人がより新しい世界を見れるはずではないか?
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