才能と、その辺に転がっているちんちん
短歌の勉強は続く。今日読んだ短歌の本、『現代短歌作法』(小高賢・2006年 新書館)。
この本の中で、
とあり、そうなると、あー俺、辞めなきゃいかんのかなあ、と思った。
私は全く根拠もなく「わしはさいのうがあるぞう、人よりぬきんでているぞう、だから俺は誰からも理解されないのだ! だから恋人と別れられ、仕事もないのだ!」とぶつぶつガンダムに向かって毎夜つぶやいているのだけれど。
なんでおれ、短歌を辞めなくちゃいけないんだろうなあ、と思い読み進んでいくと、才能があると思っちゃいけないのは「短歌は自分の人生とどこかセットになった自己省察の器」だから、とのこと。
自己省察……自分の言動を顧みて、考えるという事らしい。それはつまり「自分で才能ある、と思ってるような人は自己省察してない」って事になるのかなあ。
つまりこれ、短歌を作るという事と、自分の人生、生き方、人格、ひととなりがセットになっている、という事なのか。
「才能がある、と自分で思ってるような人の作品は面白く思われないよ、愛されないよ」という事なのかも。この筆者は親切で言ってくれているのかもしれない。
でも、それどうなのかなあ。今はちょっと違うと思うけどなあ。
僕は「俺は面白いんじゃい!」という感じがにじみ出ている人の漫画とか、漫才とか、そういうのを楽しんできたからなあ。
でも短歌という世界では、そういう傲慢さを楽しんだり笑ったりおごれる春を美しんだりしちゃだめっぽい。と、この著者は指摘しているのか。
そういうキャラは、短歌の界隈では売れない、読まれない、引用されない。短歌を詠むことで人間として研鑽され、いずれはお坊さんのような、良い精神性を持ちなさい、ということなのかしら。
スサノオはめちゃくちゃ自意識過剰で野心家で姉の職場で脱糞したり、自らの能力に傲慢なとこもあり、つまり、才能あると思ってる感じするけど、短歌の始祖の神さまがそんな感じなのは、別にいいのか。
あでも、スサノオは別に一番早く短歌を詠んだだというけで、別に短歌の中の人的にはそんなに尊敬されていないから、いいのか。
短歌読む人は、人格がちゃんとしていて、良い人でないとだめなのか。
笑いの世界でもそうだというしな。人(ニン)の悪い人は淘汰されているという。
笑いの世界だけではなくて、昨今、あらゆる作品の作り手は、よい人でないといけない気もする。
それはたぶん、作り手に回る人の数の量が増え、同じ技量ならいい人の方が他者と気持ちよく仕事ができるし、そもそも作品を作ることが現在では孤独の作業ではなく、「他人といかに連携するか」が重要な地位を占めてきたからだろう。
だから、いい人でなくてはいけない。
いい人でなければそもそも仕事が成立できない。コラボができない。顧客がつかない。仕事が大きくならない。仕事が消える。孤独の中で作った仕事は、今の地球環境では、6等星のように見えなくなって、消えていく。
俺、自称天才の傲慢にまみれた人の作品、とても好きなんだけどな。
もう一つ思ったのは、身内が傲慢だったり、知り合いが「天才ですよー」顔してると……とても恥ずかしい。
知らない、遠い人、知り合いじゃない人が傲慢だったりすると、とても面白いし、元気が出るし、ちょっと笑えることもある。
けど、身内のうぬぼれほど、恥ずかしい存在はないよな。あれだ、ポケモンで、サトシが調子乗った発言をすると、ヒロイン格のキャラが顔を真っ赤にして暴力と共に制止してくれるじゃないですか ああいう感じ。
わかる。我がの身内が、自分の尊敬している人の前で「俺、才能があるんですよ!」みたいな顔されたら、もう本当、勘弁してー、黙っててー、2度とごはん奢らない―ぞー、しねーって、思うよなあ。
で、短歌は、短歌の身内、短歌の友人に届くもの、とこの本の著者は考えていて、それで、自称天才キャラはきついと言ってるのかもしれない。
ただ、身内に向いているのではなく、知らない人に届かせようとしていた場合「自称天才」とか、あるいは「自称鬼才」とかは、ギャグとして、あるいはつかみとして、誰かに、わずかにでも触れるきっかけにはなってくれたりはしないか。
例えば、わし全然スポーツ見ないんだけど「鬼才・村上の新三大☆執念のスプリット!!!」とか「天才・”GOD”村上が教えるハイテンシャンからのダブルスプリット」「最後の砦・村上"天才のスプリット"で東アジア世界チャンピオン3連覇!」とか言われたら、「だ、ダブルスプリットって何だろう……」と少しは思ったりはしないか。たとえそれが、村上個人のユーチューブチャンネルであったとしても。わずかにでも再生ボタンをクリックする可能性は、ないか?
そして、大なり小なり、本心で才能があると思ってないと、自分のことを才能があると触れ回ることはできないと思うしなあ。
そういう……村上みたいな人が短歌に参加することは、そんなにダメな事とは思わないんだがどうだろう。村上って誰だというのはさておき。
短歌辞めろ、っていうのは、作法を説く人として、口にするべきことなのかなあと思った。
そのかわり「才能あると思っているような人は、その辺に転がっていろ」っていわれたら、俺、ころがるけどなあ。ごろごろ転がるなあ。バイト行かなくていいなら、もう本当、どこまでも転がっていくなあ。
どこまでもなあ。
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