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ちんちんだが賞が欲しくなってしまった。

 私はちんちんなんですけど、賞が欲しくなってしまった。

 ちんちん短歌と言うものを作っていて、何かと言うと、ちんちんなんですけども。

 つまりですね、短歌とか、文芸的なものに、悪意とふざけたこころを持って「ちんちん」というワードを入れ込んだ短歌を大量に作り、短歌SNS(「うたよみん」というサイトです→https://www.utayom.in/)を荒らしまわろうとやっていたのですが、作り続けていくうちに1年、2年と経ち、ちんちん短歌を続けて8年目になってしまったのです。

 で、そこで作った1000首の短歌で同人誌を作り、文学フリマで売ったところ、「あ、こういうのすごく楽しいなあ」と思い、もっとちんちん短歌を作り続けたいなあと思い、同時に、コロナ禍で仕事も人間関係も何もかも失ってしまって、がんばって選挙に行って共産党に入れたのだけど、すぐには生活は改善されないっぽいので、ちんちん短歌を考えることで何とか1日を生き伸びているというような状況。

 で、賞が欲しくなった。

 や、前に自分、こんなことを言ってはいたんですよ。

 でも気が変わった。気が変わったのです。だから、前の言葉はなし。

 賞があれば、もっとこう……「一人の頭のおかしい人が丘の上でなんか叫んでいる」状態から、「『あの丘の上にいる頭のおかしい人は、頭のおかしいけれど、まあ気さくでいい人だよ。耳を澄ましてその声を聴いてごらん。5・7・5・7・7になっているよ』と村で疎ましく思われてるボロを着た賢者が、冒険する旅人に語ってくれている」状態に持ち込めるんじゃないかなあと。

 だから、賞とったほうが、「安心感」をもって、他人を巻き込みやすくなるんじゃないか。
 あと「ちんちんのくせに、賞もらってやがらあ!」と、まずそういう入り口で面白がってくれて、参加の糸口になってもらえる気もするし。
 この二つがでかい。「他人を巻き込むときの安心感」と「ちんちんのくせに」という冗談の感じの二つが、今のところ私が賞をほしいなあと思っている動機なんです。

 で、この間でかい本屋さんに寄った時、賞を主催している出版社の雑誌を買った。年に一回くらいで出てる本のなのかな。半年くらい前に出た本。

『ねむらない樹』vol.8という本を買い、短歌の賞の発表をする号だったのだけど、おれ、初めて短歌の選評というが、選考の座談会を見たなあ。

 大賞ほか、個人賞の短歌(50首)も掲載されていて、さらに最終選考もすべて(抄だけど)掲載されている。
 こういう点が、小説の新人賞とかとは違うよなあと思った。最終候補をみんながその号の中で閲覧できて、読者も全員、選評に参加できる感じ。
 選考者が、誰に「◎」したのかという一覧表もあって分かりやすく、さらに「〇」を付けたものは座談会に話題にあげられていて、いろいろ話し合われている。

 座談会の様子。一読した感じ、すごく和やかっぽく……感じたのは……僕の読みが浅いんだろうか。丁寧に、いろんな観点から褒めたりしている。
 そして「そーか、こういうところ褒めるのかー」って思ったり。

 この、短歌の……「連作」という形式で載っていて、「短歌って一首ごとに評価されるんじゃないんだなあ」と思った。というのも、一首一首ではなくて50首という塊の中で浮かび上がってくる作者の主張とか、面白い感じ、歌の中で歌われているキャラクターを評価したりしていて。そういう感じなんだなあと思った。

 これはきっと、「書籍化(歌集)する」前提で審議してるんだなあと思った。一冊の本にしたとき、面白い新人さんはどれかなあと。たしかに、出版社の主催している大会なんだから、最終的には「いい新人さんを見つけて、いい本を作り、文化的にも商業的にもいい感じになってほしい」というっていう感じなのだから、そうか。短歌がまとまって本になって、面白いかどうかを見ているのだなあ。

 そう考えると、「短絡的なアイデア、ネタ的な文体に乗れない。」という言葉が座談会で出てきて、あーって思った。そうか。大喜利の答えみたいな短歌は、たとえ一首で目を引いたり、題材や着眼点として面白くても、「歌集」のストーリーの中でそれが出てきたら、流れとしてよくない、のかなあ。

 僕のいままでの「面白い短歌」の基準が、「一首で目を引いて、その人でしか作れないようなスペシャル感がすごい出てくるもの」だったので、どうしても「ネタ的」なところに目が行きがちだった。よくわからないネタ。こんなところを31文字にしようとしたのは、お前が初めてだぜ! みたいな短歌を、いい短歌だと思っていたなあ。


 話を戻すと、出版社の賞って、あくまで「本にすることで完成するという事が前提となっている」んだなあと思った。それは当たり前の話か。

 じゃあ、おれがもらう賞は、出版とかが目的じゃない賞のほうがいいのかなあ。

 短歌で賞だと、他にも
【第52回北原白秋顕彰短歌大会】というのがあり、これは「1人1首、自作で未発表の作品に限ります」という条件。主催団体は柳川市……市! 市の教育委員会、生涯学習課文化係! なるほどなあ……。

 目的としては、「市の生涯教育を発展させて、最強の生涯教育を市でやってますアピールをし、市民に生涯教育をすごいさせたい」という目的なのかなあ。
 だから、いろんな人に投稿してほしいから「一人一首」。短歌の数ではなく、人数がほしい。だから、投稿するときに1000円払う。すごい人数がきっと応募するから、それが運転資金になると。

 これは俺、違うんだなあという事がわかる。

 他には【第10回現代短歌社賞】というがある。「歌集未収録作品300首を章立てし、小題を付して下さい。」とあり、これはもう、即戦力、即本にしたい、本にする原稿を送ってください、ということなんだろうなあ。
 300首が最初からほしい、ということは、この出版社の短歌の本はだいたい一冊300首なんだろうなあ。逆に言えば、300首以下の短歌集は作らない。それ以外の選択肢はない。ということは、フォーマットがたぶん決まっている。届く読者もある程度決まっている、という事かなあ。

 じゃあ、これもきっと違うのかなあ。

【第42回全日本短歌大会】というのもある! 全日本! きゃ、キャプテン翼の世界だ……。
 応募要項を見たら応募用紙があり、左側に原稿用紙もある。つ、つまり……手書きか! 2首一組での応募で、2000円の参加料。
 これは目的は……なんだろう。「日本歌人クラブ」なる団体が主催していて

「日本歌人クラブは現在、約3,000名の会員が所属し、歌人相互の親睦を計り……」

 とあり、うわあ! これ、ここで賞を取れば、3000人に褒められる、ワッショイワッショイされるということかあ!

 目的が分からない。わからないが、賞の名に「文部大臣賞」とか「毎日新聞社賞」というのもあり、これは新聞社と文部大臣と連携してますよ、とても団体としても文化としても、短歌は新聞社や大臣に近いですよアピールという事なのか。

 となると、これも自分が応募するような賞じゃないんだなあ。

 どこかに、
「頭がおかしい」
「気が狂っている」
「貧乏人らしく金のためならなんでもやりそう」
「短歌は一応、ここ10年くらいは継続的に作っていけそう」
「短歌の中の人じゃなく外の人に視線が向いていて、重犯罪以外はなんでもやりそうだ」
「気が狂っている」
 
ような人を選出する大会や賞があればいいんだけど。ないのかな。
 その目的は、まあ普通に国家転覆とか、文化的な政権交代を迫る人材発掘とか、ないのか。国家転覆を目的とする団体、現状の短歌発表形式の革新を目的にするような団体って。

 ないか。ないよな。そういうのって、自分で作るなり、呼びかけるなりしかないんだよな。そういうもんだよな。

 だから、その呼びかけのためにも、一回は頭を丸めて仏門に入り吉野へ行き、身を隠さねばならん。日本史を勉強するとわかる。そういうもんだよね、乱を準備するって。

 乱を起こしたいなら、自分が王族か、そうでない持たざる者なら、陳勝のようにホラを吹くか、劉邦のように他人に甘えまくるか、大塩平八郎のように独学を極めて門弟を集めて乱を奉ずるか。

 わしは王族でもなく、「上野のお山で毛皮をなめしていた」一族の末裔と祖父から聞いていたので、いまんところ陳勝、劉邦コースだなあ。となると、賞を得て天下に挙兵するよりも、呉広や蕭何を得る方が先だよなあ。

 人徳かあ。
 ないからなあ。

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