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ちんちんだがレイトショーで映画『犬王』を見た。

 ちんちんなのだが、レイトショーの映画を見て、その後セックスしたのだが、その映画が『犬王』というアニメの映画だった。その感想を書く。

 会う約束をした女の子が『犬王』を見たい、と言っていたので、それで、見たのだった。なので私は監督の支持者でもなく、原作者ファンでもなく、出演声優のアーティストのファンでもなく、まったく映画を見たいと思っていなかった外部の者であり、偶然見ただけの人である。
 そして女の子とはネット上で知り合い、いままで会ったことがなく、映画館集合で出会って、即映画を見て、そしてそのあと、セックスをしたのだけれども。

 それで、セックスの話はよくて、『犬王』の話が今回のnoteだ。
 一部ネタバレがあるが、私はネタバレと言うものをどうでもいいと考え、ネタバレされる方が悪い、わたし、悪くない、ちんちん、ちんちん、と思っているちんちんなので、内容を知りたくない方はこちらで花の写真を見ていて帰ってください。花が路上で虫とセックスしてたので写真を撮りました。

 (ここからネタバレありの感想です) 

 『犬王』。ちんちんである私は、ハマれなかった人であり、しかし一緒に行った女の子は大興奮で、とてもよかった、もう一度見たいという。
 このnoteでも時々映画について感想を書くけど、映画をけなす癖があり、『犬王』を見て、やっぱり文句ばかり思い浮かんだので、けなす方向の感想を書きます。

 現代の、映画を見に来た観客を楽しませないでくれ、と思った。

 や、すごい映画。頭のおかしい映画で、本当にいい映画だなあと思ったが、だからこそ、すごく嫌だった。登場人物が何のために存在して、時代設定が何のためにあるのか。
 全部観客を楽しませるためにある。それが本当に嫌だ。

 前半の丁寧に作りこまれたお話の部分。それがとても素晴らしかった。
 盲の生きる世界の、光と音、南北朝時代の貧村にたかる蠅の音、建物、人間の動き。これはすごいなあと感動していた(たとえば指先で名札や石碑の文字を確認し、それが白くぼやけた世界から映像として立体化する、とか、おー、こういう風に世界が見えてるのか―感がアニメでないとできない表現って感じですごくかっこよかった)。

 人がある。人がそこにいる。たしかにそこにいる。それが、動きと音を伴って、生きていることを実感させる。素晴らしい序パート。

 が、中盤。能で言えば破パートとでもいうのか。
 登場人物が歌う。
 歌うのはいい。ただ「そんな風に歌わないだろう」と思った。
 その歌い方は、現代の、たぶん作り手が感動してしまった音楽の人のいいとこ取りのコピーだと思った。
 主人公たちは、そうは歌わないだろうと。しかし映画では、現代の観客を喜ばせるため、楽しませるため、あるいは作り手が感動して元ネタにしたミュージシャンたちのリスペクトのため、登場人物の固有の生が歪んでしまったと思った。彼らの動きは、どこかで見たことがある、演奏や立ち振る舞いだった。

 これは彼らの音楽ではない、彼らの演奏ではない、彼らの生き方ではない。
 作り手が最初からやりたかった事、見せたかったことを、させられてしまっている。そう感じた。

 それが長く続く。
 や、この映画の「売り」のパートだろう。観客を楽しませるため、熱狂させるために、物語中の登場人物の存在をゆがめていると感じた。これは、アニメにしなくてもいいんじゃないか。
 だって元ネタになったパフォーマーやミュージシャンを、連れてきて演奏してもらった方が、きっと上になってしまう。

 動く絵固有の、動く絵だからこそできる何かがあると信じて、作り手はこの道を選んだのではないか。
 なのに、現実のミュージシャンやパフォーマーをリスペクトすることを優先しすぎて、自分の得意領域に引き込んだだけになっていないか。

 宝剣に目をやられ、異形の友達と心を交わした琵琶法師だからこそできる、あのキャラだからこその演奏や表現やファッションになってない。
 現実の、伝説的なパフォーマーたちのいいとこどりキメラになっている。それは、アニメ世界の中の固有の生の放棄ではないか。彼らの音楽を、作り手は奪っている。あれはあれじゃない。

 終盤の演奏シーン。確かに心が動かされる。感動もする。血も騒いだ。うおおって思った。かっけーって思った。
 だからこそ、違うって思った。感動させられていると思った。
 これは違う。これは、無念だ。

 見た人は感動してしまうと思った。私も感動した。つらい。魂がこもった感動の前に、彼らの固有の生命や物語がかき消される。肯定的な気持ちに塗り替えられてしまう。作り手の本気がすごすぎて、狂いがすごすぎて、登場人物たちの命が、生き方が、消えてしまってる。
 
 とてもつらい。

 僕は、たとえつまらなくても、登場人物の固有の生を感じ取りたかった。見たことのない固有さを見たかった。
 映画の序盤にそれがあり、そこに期待した分。中盤から後半は感動させられてしまって、とても嫌だった。

 最後に登場人物二人が、現代にやってくる、みたいなイメージシーンがある。これもおかしい。
 彼らが現代にやってくる理屈も縁も何もないはずだ。ただ、私たちが現代にいるから、あのシーンが入ったにすぎないと感じる。言ってみればファンサだ。
 観客を楽しまさせられている。そんな私たちは何様なのだろうか。たかが現代に生きているだけなのに。なんで彼らを辛い目に遭わせてまで、感動させられているんだ。

 劇中の登場人物二人は、死者たちの声や物語を「つかみ」、それを表現する、という人生を選んだ。「ともにある」と。死者たち、報われなかった者たち、異形の者たちの声を聴き、つかみ、それを表現する。それが、主人公のつかんだ「ともにあり」かただった。

 この映画の作り手たちも、登場人物たち――フィクションの中の命だけど、彼らの声や動きや人生を表現するのが、仕事ではなかったか。
 映画内で、それがなされていなかったように感じる。最終的に観客を喜ばせるため、観客を幸せにするためにアニメを作っている。

それは、違うのではないか。

・・・・・・

 ここからは感想と言うより我が身の振り返りのためのメモなのだけど、このnoteは自分の作っている『ちんちん短歌』という短歌を考えるためのものですけどね、この映画を見て「ちんちん短歌を、読んでくれる人を楽しませたり、幸せのために作ってはいけないのかもなあ」と思いをあらたにしたところだった。

 ちんちんが、ちんちんとして、ちんちんの声を聴き、ちんちんがちんちんであり、ちんちんと共にあり、そこにあることを表現しなければならない。
 そこに観客にとっても熱狂や楽しさや幸せがなくとも。
 そもそも、人を幸せにしようとか、楽しませようとか、それは傲慢な考えなのではないか。人を傲慢にさせる考えではないか。

 死者たち、報われず死につつある者たち、誰にも見てもらえず、なかったものにされつつあったものたちを、つかみ、「ともにある」事を表現するのが、私のようなぶざまで、異形で、死んだほうがいい、外側の人間にとっての仕事なのではないかなあと思うし、それから離れ、権力に接近したり、富貴を得ようとすると、劇中の彼らのように、殺されてしまうのではないか。

 殺されて、忘れ去られて。それはやむなき事と、彼らの報われない最期を見て、そう思ったのだった。

 生きてはいけないと思う。わたしはちんちん短歌を作る以上、生きてはいけない。
 死者たちとともにあろうとした以上、誰からも相手にされず、熱狂もされず、モテず、つまらないと思われ、死んだほうがいいと思われながらも、ちんちんとともにあって、生きていきたい。生きていきたいなあと思いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 と、なんかそんな風に、映画を見て思ったなあ。とてもいい映画だったなあ。
 あ、あと、結局冒頭の草薙剣と、途中出てきたムラマサみたいな日本刀と、変な仮面ってなんかあれ、関係あったんだっけ? てか映画の本筋にあれらマジックアイテムはどういう意味付けがあったんだろう。んー、ま、いいか。かっこよかったから。

 なんかそんなかんじでーす。

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