にんげんにとってちんちんは必要なものなのかっていうか、必要って、なんだ
「需要」というものに、そこまでして応えないといけないのだろうか。
あなたのいる世界には、いわいるマーケティングという概念があり、ちんちん短歌出版世界の世界長になったわたしも、経営の事を考えなければならない。
なにせ、近いうち私は文学フリマで、インクのついた紙束を、労働との引き換えで得られる「日本銀行券」と書かれた信用の証と交換するのだ。人口が一億人いる世界で、世界長の私は、丸メガネで歯を出しながら、そろばんを携えつつ「そうでやんすなあ、やんがらホイでやんす」と、本がいくら売れれば、メンヘラを抱けるお金が手に入れられるか、座禅組みつつ妄想している。
メンヘラは……お金で抱けないよなあ。あれは、心意気で……抱くのだ……。そんな気持ちで、経済をやっていると、やはり「需要」に値段が付くことから、逃れられない。
みんなが必要としているものに、値段が付くのだ。
みんなが必要としてないものには、値段が付かない。
だからみんなが必要としていない人間には、食費すらあたえられない。
誰か俺にあたたかいスープとパンを。
はたと、わたしの世界に存在する『ちんちん短歌』は、みんなの必要……【需要】があるのだろうか。ちんちん短歌の需要があるとは、どういうことなのだろうか。
ちんちんについて知るための資料なのか。だったらブリタニカ百科事典の方がいいだろう。おもしろそうだから買うのか。でも面白い物であれば、パンダの方がよっぽど面白い生き物だと思うんだよなあ。パンダでなくても、面白い物であれば、スマブラとか、ドラえもんとかでも交換可能じゃないのか。
面白い物なんて交換可能じゃないかとおもってしまうのだ。それじゃなくてはいけない、みたいなことって究極、ないと思うんだよなあ。
だから、どうやって勘違いさせるか。どうやって、その瞬間、お金を出すその瞬間だけ、頭が悪くなって混乱状態になって、どさくさに紛れてお金を巻き上げることができるかだなあと思う。「これは必要なものだ、これは、需要だ、これがないと、死ぬ!」みたいに、間違えさせるか。
その勘違いさせるためには、やはり魔術か。それに準ずる何かだろうなと思う。勘違いってどういう時に起きるかと言うと、やっぱりテンション上がってるときかなあ。希望を見せたり、気持ちよい空間に居るとか。
第二次大戦の初期、日本はすごくいい感じだったそうだ。毎日日本が勝ち、毎日領土が拡張していく。犯罪も減ったらしい。みんな希望に満ち溢れていた。うそ希望。まちがった希望。そこに需要があり、暴力が気持ちよく人々をレイプした。
そうではない、需要にも必要にも答えない、そういうものになれないものか。
ちんちん短歌、欲しくもないのに買っちゃった、みたいな。こんなもの誰が買うんだよ、と、ばかにしながら、ひややかに思いながら、自虐しながら、絶望しながら、購入してもらうのがいいなと思う。
それは歪んだ夢なんだろうか。需要とは違う所に居ようとすると、歪むのだろうか。痛いのだろうか。
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