音楽を消費するとはいかなることか? POPミュージックの聴き方を考えるその1

音楽って楽しい! 音楽さえあれば人生サイコー!
先日、「夜に駆ける」を激唱しながらチャリで深夜爆走してたら速攻でチャリ松に追いかけられて職質されました。あと、いまから何年も前に高校生だった時にも、当時ハマりまくってたOffspringっつーパンク・ロック聴きながらチャリ爆走こいてたら、すっごいイカした真っ赤なスポーツカーに跳ね飛ばされて5メートル弱ぶっとんだんだけど、なぜか無傷ですんだこともありました。(うまれてはじめて失神して気付いたら病院っていうドラマの世界)あなたも似たような経験ないですか? ないですよね。でもせちがらい世の中ですよね。ぼくの中でチャリブラと音楽鑑賞はセットなんですけど、あまり評判のいい行為じゃないらしいので、やっぱ公道では気をつけたほうがいいですね。

さてこんなにも、ぼく達を夢中にする音楽について、ちょっと考えて見たいと思います。YouTube貼ってくんで聴きながら暇つぶしにどうぞ。どうでもよければそっ閉じして即去り願います笑

具体的には近代音楽の成り立ちをバッハあたりから“サクッ”と考えて、今、ぼく達がどうやって音楽を聴いているのかっていうのを追ってみたい。すっごい端折るけど、とりあえずいってみよう。

まず、なぜバッハなのか?

それはもちろん彼が“近代音楽の父”って言われてるからなんですけど、なぜ彼がそう呼ばれるようになったのかはご存知でしょうか?

それは彼が編み出した<平均律>という現代につながる調律法によるものなんですね。調律法ってなんやねんって方は、簡単にドレミのことだと思ってください。そのドレミを現代の形にしたのがバッハであると。まあ実際は彼が死んでから100年もたってから初めて楽器に適用されるんですけど、理論の上ではバッハが最初だったと。つまり昔と今ではドレミファソラシドの音が微妙に違ったんだけど、大バッハさまのおかげで今日ぼく達が現代ポップで聴くような音階になったんだよーということなのです。
試しに5分くらいお聞きください。
JSバッハ「平均律クラーヴィア曲集」

はい、絶対聴いたことあるやつですね。歯医者とかなんか待合室系BGM御用達っていうか、これが心療内科とかだとドビュッシーとかになるかと思うんですが、こいつは全然意味合いが違うのでそれは後ほど説明します。

この曲の何がすごいのかっていうと、ちょっと聴いて、もうお気づきかもしれないんですが、どんどん調がかわっていくんですね。一応知らない方のために、音楽には調という概念がありまして、たとえばカラオケいくと原曲キーとかいう言葉が出てくると思うんですけど、これを下げれば女性アーティストの曲も男子が歌えるみたいな。これが調、キーというもので、音階の数だけ、つまり12個あるんです。で、一つの音階にはメジャーキーとマイナーキーというもの、日本語では長調とか短調といってわけるんですけど、明るい音階と暗い悲しい音階に分けることができて、12調の長短あわせて24通りの音階があると考えてください。
(厳密には平行調といって、長短での音のインターバルが完全に一致する調があるので、正確には12種類のドレミがあれば十分なんですが)

その24種類の全キーで、クラ曲つくったらカッケーんじゃね?
って考えたのがバッハなんですね。凄い。

凄さが全然わかんねーよ、って方のために、この平均律つまり現代のドレミの音階以前の曲をちょっと聴いてみてほしいんですけど、それを<純正律>といいます。

モーツァルト「トルコ行進曲」これもなんか、運動会とかで流れますよね?
有名な曲なんですが、動画では最初に<純正律>ではじまって、3:33秒から<平均律>つまり現代音階に切り替わるんですね。

最初の3分間違和感かんじないですか? そして333からの安心感ヤバくないですか? あ、ホーム帰ってきたみたいな。実家感。
でもバッハの時代の楽器は全部、最初の3分間のような<純正律>で曲が演奏されていたわけです。もっというと「平均律クラーヴィア曲集」自体も当時は<純正律>でしか表現できなかった。

そうすると、聴いていただいて違和感を感じた方にはわかるかとおもうんですが、この違和感は転調するたびにさらに増大するんですね。当時の音楽っていうのはこの<純正律>のために、転調については、今よりもっと厳しいルールというか作法がありました。美的観点から、移調ができないキーが存在していました。それが当時の音楽を、ある意味、特徴付けているって側面もあるんですけど。

バッハがすごいのは、純正律しかない時代に、全キー転調しまくっても平気な、音階の分割が想定される未来を見越して「平均律クラーヴィア曲集」を全キーで書いた、ってことなんです。この曲は今の現代に聴かないと最高に響かないってワケ。(バッハが平均律が最高! と思ってたかどうかは、実は別問題で、当時は当時の音の響きが当たり前に良いものだと考えられてたので、そういった意味でここで単純にバッハが平均律を作ったという言い方にはいろんな論争も含まれますが、まあ興味があれば掘り下げてみると楽しいかと思います。)

音階なんて昔はあってないようなモノだったんですね。国や宗派が変われば、まるごと変わってしまう。日本にも琉球音階とかいろいろ風情が違ったものがあるように、音階どころか一音一音のチューニングも今と昔で違ったんです。さらにいえば、西洋のグレゴリオ聖歌とか日本の能みたいな、そもそも音階すらドレミになってないようなものも、声明の世界にはあります。ただ、原初の音階が考えだされたのはかなり古く、紀元前、弦の振動が弦の長さの比率によって変わることを、あの三角形の定理で有名なピタゴラスが突き止めました。このピタゴラス分割から、何百年もかけてやっと1800年くらいになって、はじめて現代の平均的な音の分割法が成立し、その上で全ての調でドレミが等しく均等に聞こえるようにゆっくりと進化をしてきたのです。

話がズレますが、中世に、アノなんでも禁じていっつも後ろ髪ひっぱる例の宗教はここでも大活躍してまして、ある音程を定めるのにいちいち教会のお許しを得ないとならないような時代があり、気に入らないと「悪魔の音程」とかつって宗教裁判してガチで縛り首とかにしてたらしいのでマジでイッちゃってます。科学も音楽も芸術もそうとう宗教のおかげで割を喰って、発展という意味ではめちゃくちゃ阻害されている過去、もしくは現在も思想という意味では同じかもしれないということは、頭の片隅にとめておいても良いと思います。ぼくらは形而上的なものにもっと疑いをもっていい。それは宗教に限らず、あらゆる哲学や心理学、精神医学などにも言えるかもしれません。(もちろんそういった全てが一概に悪いと言ってるわけではないです。好きなモノを信じて生きるのは自由ですよね。ただそれが万人と森羅万象にあてはまるかどうかは線を引こうよ)

☆☆☆

ここまでで、ぼく達は調というものを完全にマスターしました。
(千年くらいブッ飛んでますけど、まあそういうことにしましょう笑)
現代はバッハさえ聴いておけばいいといっても過言ではありません。ガチでKING of POPはマイコーではなく大バッハだと信じてやまない僕です。しかしこのままでは話が18世紀で終わってしまいます。
そこで「POPミュージック」の聴き方というテーマに即したアイデアとして、ここで<音韻>と<音響>という要素をぶち込んでみたいと思います。

<音響>というのは特に難しいこともないですよね、いまみなさんが普通に使うような意味での、どこそこのコンサートホールは音響がいいとか悪いとか、〜〜の映画はぜったい5.1chサラウンドで聴くべきだよ! とかっていう場合の、音が発生する環境そのもののことです。良い音響で音楽を楽しみたいっていう気持ちは誰でもあると思います。けっこうイヤホンとか買うのにもレビューとか一生懸命読むでしょ? ということは背景にぼく達はいま極めて<音響>にこだわって音楽を聴いている、ということが挙げられるといえます。

では<音韻>とはなんでしょう?
それは先程から説明してきたような、音の高低とか、音階だとか、キーの長短だとか、ギターのチューニングやコードといったような音のもつ情報そのもののこと。情報ということはつまり、媒体として記録することができる音が鳴る以前の全ての情報源でもあり、それがデータにせよ、MIDIにせよ、楽譜にせよ、それを元に誰でも同じ音楽を奏でることができる、そのソースそのものを音韻だと考えることもできます。もっと簡単に、ここで僕が<ドレミファソラシド>と書いているのも、音韻であると言えます。口ずさめるし、ピアノで弾けば音がそのとおりでるからね。

言葉にたとえれば、僕らが普通に言葉を話すとき、その言葉の内容が音韻です。そしてそれが響く場所や、声の質や調子といった、環境に属するものが音響ですね。なんかこういうと、構造主義とか言語学のシニフィエとかシニフィアンみたいな感じで、余計ややこしい言い方ですが。

「王様の耳はロバの耳ー!!」と地面の穴に叫ぶ時、王様の秘密は音韻で、意味はおいといて、穴に響いた音そのものやエコーが音響です。

さて、当たり前の話として、音楽が鳴っている以上、そこには音韻も音響も同時に発生しているわけです。両方揃わないと音楽は響かない。
それをわざわざ分けて考える理由は、その時代毎に、音楽をより音韻的に聴くか、むしろ音響的に楽しんでいるかという、まさに流行りのようなものを、音楽の歴史の中でムーヴメントとして見ることができるからです。

もっかいバッハに出てきてもらうと、バッハが意図したことって極めて<音韻的>なんですよ。平均律とはいわば、厳密なドレミの話ばっかりを考えてるんで。それが教会で演奏されようが、カーネギーホールでピアニストが弾こうが音響は関係ない。調律が良ければ音楽そのものが音楽的でPOPであるだろうという、大本の考えがここにあります。そしてこの時代を古典派って呼ぶんですね。

そして西洋音楽は、この平均律というものが想定されてから200年間ずーっと、耳障りの良い、いわゆる古典的でPOPなクラシック音楽を作り続けるわけです。といってもあまりにドPOPすぎるのもアレなんで、半音や不協和音を混ぜ込んだ、しかしそれでもギリギリ名曲として響くように、メロディーとして口ずさむことができ、かつより感情に訴えるジャンルとしてロマン派というのがでてきます。かのベートヴェンや、19世紀になるとワーグナーといった音楽。奇しくもそのドラマ性から戦争鼓舞の音楽としての側面をもってヒットラーに流用されてしまったり、なんて歴史も踏まえつつ、それでもPOP性を維持した調律のなかで発展していきます。

特筆すべきなのが、この時代には現代に通じるような音楽の商業化がなされたということがあります。市民による資本開拓がなされ、現代のひとのようにオペラやコンサートを人々がお金を払って楽しむようになった。そうすると当然、大衆は音楽自体はもちろんのこと、それを聴く環境にも注意を払うようになる。つまり<音響的>なオーケストレーションや舞台設定といったものにも注意がいくようになるのがこの18世紀以降です。

19世紀のロマン派後期には、大戦にからんだ情勢背景もあり、こういった闘争を煽ったり、祖国に想いを馳せたりといったような、ナショナリズムが音楽に反映されている時代ともいえます。ですがどんなムーヴメントにもカウンターパートがおきるように、または民族的な躁鬱の縮図として、戦時の高揚はいつもかならず戦後の鬱々とした絶望でもって評価されるように、このロマンティックな音楽の潮流にもいわゆる“メンヘラ期”がやってきます。

まあガチのヘラ期にいくまえにまだ一次大戦前の曲をひとつ聴いてみましょう。厳格な調律からすこ〜し意識が逸れはじめた頃に登場し、印象派という作風を築いたドビュッシー。心療内科御用達の初期の「月の光」のようなメロディーの美しい曲が有名ですが、後期にはかなり調からアウトしようとする作風が目立ってきます。最晩年のソナタからの一曲です。

ここ。まだ調はあるんですが、あきらかにPOPじゃないんですよ。前衛の芽生えがガンガンに感じられる。その音なんなの? みたいな不協和音もガンガンなり始めます。WWI前夜でコレ。そしていよいよ戦後になると、どん底の鬱状態の人々は“POP性”どころか、“調性”すら否定するような動きへ進んでいきます。んで、末期になるとこうなります。WWIIのあとです。
シュトックハウゼン:ピアノ曲XI

このオッサン何やっとんねん。って思ったアナタ。素晴らしい感性をお持ちですね笑。なんか厳かな雰囲気を醸しながら適当に鍵盤をぶっ叩けばそれらしく仕上がりそうな気がしますよね笑?
ですがこのジャンルはセリエリズム、又の名を十二音技法といいまして、調を無視して、全音半音全て含む、あらゆる鍵盤をつかって作曲をしようというイズムからなる、厳密な記法による音楽なのです。このピアニストは正確に譜面通りに演奏しているだけなのです。端的にいって病気ですね。

さらに近代音楽の精神病はは進行していきます。
極点としてはジョン・ケージの「4分33秒」という、無調どころか4分強の“無音”をオーケストラで奏でる? といった音楽? に発展? していきます。発狂寸前の嵐の前の静けさといったところでしょうか。

まあ結局これが、セリエリズム含む、全現代音楽にトドメを刺したというか、ここまで突飛なことが成立するなら、もはやどんな奇抜さも戦える土俵もなくなったということで、みんな仲良く悪夢から目が醒めるといった幕引きとなります。

ここまで現代のクラシックの動きは、バッハ代表古典派のPOPで意味の通りやすい<音韻的>なものから、それを過剰装飾した、劇場型で<音響的>なロマン派をみて、さらにそれに対抗するように無調性、つまりキーを感じさせないような意味性の乏しい音楽の台頭、いいかえれば、聴衆の理解を求めない態度、聴くものの状況や環境すら埒外に置いた音楽性の、その頓挫によって締めくくられたと言えます。
ですがその竜頭蛇尾よりも、途中で<音韻・音響的ピーク>が歴史の過渡期にあったということの方がここでは重要です。これってなんとなく今に似てないでしょうか?

話を続けましょう。歴史は繰り返します。ジョン・ケージの原爆が現代音楽界を焼け野原にした頃を前後して、そんな不毛な努力を嘲笑うかのように、アメリカ本土の大衆を熱狂の渦に叩き込んでいた音楽がありました。
それがJAZZです。おなじく戦争高揚音楽としの側面をもちつつ、黒人が持ち込んだ独特のスウィングするリズムと4音による複雑な和声進行を特徴とした音楽です。

ではBEBOBという、のちにモダン・ジャズに派生する最初期の音源を聴いてみましょう。チャーリ・パーカー、マイルス・デイビス、ディジー・ガレスピーというJAZZ界レジェンド級の面々によるカルテットです。

今聴いても最高ですね。POP性と難解な部分が両立できるのがJAZZらしいところで、こういった時代はそのメリハリが効いていたように感じます。
(このあとひたすら技術発展とともに“難解さ”だけがましていくというのがクラ界の状況を反復しているようで面白い)
さあ、ここでスウィングと4和音以上にJAZZを決定づける要素として、コード進行の徹底的な明確化というものがあります。その自由度の高さから難易度にばかり目がむけられるJAZZですが、コードの進行だけは各曲ごとにお約束がありました。むしろその進行がしっかり定められているがゆえに、全プレイヤーがその上で自由に表現できたのです。

これは音韻へのアプローチという意味において、バッハが音程音階に重きを置いたとするならば、JAZZの世界ではそれを和音の構成に突き詰めていったのです。焼け野原から音楽の意味性の復活、といっても過言ではないかもしれません。そしてその意味するところは当時の大衆に受け入れられ、現代のPOPミュージックを聴くように人々はJAZZに親しんでいったのです。

それだけでなく、バッハよりさらに音韻的な要素がJAZZにはあります。それは音楽の記号化・数値化です。古典の時代に音韻といえば、それはすなわち楽譜に書かれたオタマジャクシ以外の何者でもありませんでした。しかしJAZZでは楽譜の代わりに完全な記号で譜面があらわされます。簡単に説明すると、音階すべてをドレミファソラシドと名前で呼ぶかわりに、それぞれ12345678と数字を割り振って考えるようにしたのです。これによってどんな調性でも、たとえ曲の間に転調しても、同じ音程のメロディーやコード進行を演奏することができます。

古典の時代と一緒で、意味的な整理がなされると、その同じ方法論による量産が始まります。JAZZが完成させた和音進行の厳密な理論とその記号化が、現代に繋がるPOPミュージックの量産の基礎となっているのです。
え、POPミュージックってロックンロールが派生じゃないの? って思う方もいると思うんですけど、それは正解なんです。この1950年代に同じくROCKミュージックも派生してくるんですが、それはJAZZ的な音韻の整理と量産性が確立されて、その黒人のムーヴメントのカウンターパートとして、黒人音楽の要素もパクリながら、白人が好んでいたカントリーやブルーグラスといったウェスタン音楽(すごい簡単にいっちゃうとテイラー・スウィフトがギターだけで弾き語るときみたいなやつw)と合わせることによって確立していった。それが初期のロックンロールということが言えます。

そしてこの量産というテーマを掘り下げるために、理論の話をさわりだけさせてもらいたいんですが、音楽よく知らない方は解りにくかったらすみません。(まあそういう方はここまで読んでないと思いますが笑)

JAZZの譜面ってどうなってるんでしょうか?
音数も多いし、さぞオタマジャクシがうようよ泳いでるんじゃないかなって思うかもしれません。しかし実際はほとんど音符は存在しません。ほとんどの場合、コード進行だけが記号的に表記されているので、普通の楽譜よりかなり簡単なフォームになるんです。実際にここに書いてみますね。ここに書けちゃうくらい簡単なので。
SOULミュージックですが、この曲をベースに展開していきます。
(厳密にはJAZZじゃないんですが簡単なので!)

Imaj7 | VII7 | IIIm7 | V7 〜

たったこれだけ。
この4つの記号群だけで、この一つの記号を一小節分奏でてあと繰り返しでいこうぜベイビー、っていう展開が同意されます。音符を書き殴られるよりは多少簡単に感じませんか?

では少しだけ内容を説明しますね。
ローマ数字がそのままドレミにあたります。
だからこの曲を音名で表現してしまえば、ド〜シ〜ミ〜ソ〜っていう反復になってるんですね。ただカタカナのドミソはもちろん使えない。そのかわりにアルファベットの大文字で音名を表記します。

ド=C I レ=D II ミ=E III ファ=F IV ソ=G V ラ=A VI シ=B VII

そしてmajは長調、mは短調、それに付属音としてセヴンス 7などの装飾音があります。これは少し複雑になっちゃうんで説明を端折りますけど、コードにも明るい暗い、切ないオシャレといった響きがあって、それは音を重ねてゆくことによって表現できるのですが、その加えたい音をこれにその曲に合ったキーを設定してあげれば、誰でもコードを再現できるようになるという、<音韻>の完全な“記号数値化”がここに完成されているんですね。

たとえばこの曲はキーがC#なのでそれを厳密に書き直すとこうなります。C#maj7 | C7 | Fm7 | G#7 〜

現代の音韻の記号化の最たるものが、このコード理論に繋がってくるんですね。で、これを積み木のように継ぎ接ぎしてゆくだけで、音楽は簡単に作曲できてしまう。さらにそれを推し進めていったものが、MIDIやDTMといったコンピューティングによる作曲といえます。
そこではVm7♭5などといった複雑な表記のかわりに、ひと目で音の高低とリズム長短がわかるように、長さの異なるテトリスのバーのようなオブジェクトで音が表現されています。

まとめると、JAZZやROCKにはじまる、現代の<音韻>情報の整理が大衆の消費にかなう音楽の大量生産につながり、今のPOPsがあるということが言えます。しかしバッハの時代と同じように、単純な音韻情報でシェアされたムーブメントは、品質の均一化も促進します。同じ曲ばっかになるんですね。そうすると、差別化のために大衆の耳は<音響>寄りの聴き方をするようになります。今で言えば、オーディオの進化だったり、デジタルな作曲方法による表現の変化だったりといったことが、音楽の響きの部分をどんどん変えてきている状況があります。
初期のジャズやロックの音源なんて音割れ放題で、音響がどうとかいってられないですからね。純粋にあたらしい音列の感覚として音韻的に楽しんでいた。まあいまではデジタル・リマスターという手法でそれすらよい音響に変えてしまうといったこともできるようになったわけです。

よくこういった音楽議論には、パクリだのオマージュだのカヴァーだのといった下らない諍いが必然沸き起こるものなんですが、それが何故おこるのかといったことを逆に考えますと、<音韻的情報>のパターンが出尽くしてしまっている。ということが一つあげられるんですね。

Imaj7 | VII7 | IIIm7 | V7
たとえば先程のこの進行は、この代表曲にならって、
“Just the two of us 進行”っていうんですけど、じつはこれで数々の有名なPOPソングがまるごと歌えちゃうんです。
「夜に駆ける」にもこの進行は使われてますし、似たような派生の
「春を告げる」とかも同じコード進行です。(この曲だいすき)

さあ、こういう状況を単純にパクリって言えるでしょうか。
POPミュージックの世界には音楽シーンってのがあるんですけど、これはユーザー側の事を考えた言葉なんですね。踊りたいヤツが聴くならクラブが、暴れたければライヴハウスが、一体感をとにかく感じたいならスタジアムがっていう音自体が響く場所と人々を頭に入れて、今の全てのPOPミュージックがジャンル化されていきます。

バッハ以降完全に情報制御がなされた音韻の世界ではもう誰も戦えない。
調性も音階も和声もすべて出尽くししまって、被らざるを得ないんです。
そういう意味で音韻的には僕たちはまったくの新しい音楽を聴くことはできないんです。そういう方向にいきたいなら、極論、ジョン・ケージの“無音”になってしまう。それじゃつまんないですよね。
(ただ現代音楽を否定する意図はありません、現代音楽は様々な効果音の研究などで、音質的には非常にグルメな方向性へとぼく達の耳を進化させてきました。それが今でも映画音楽や、ゲーム音楽の独特な空気感などに生かされています)

だから、たとえ限られた音韻のチェスゲームのなかにも、その環境や楽しみ方に幅がでるように、シチェーションとしての音響を最高にクローズアップしてくれているのが、現在のPOPミュージックの最前線なのです。

ぼくが言いたいことは、ぼく達は最善の状況で今の音楽シーンを“消費”させていただいている、ということなんです。これは事、音楽だけの話に限りません。小説漫画映画絵画あらゆる芸術が、現代では記号化の整理と大衆への迎合=消費という様式を免れることはできません。

ならば、一碗のご飯の最後の一粒も感謝していただくように、
全てのPOPアートを楽しむべきではないでしょうか。
芸術を楽しむのに、個々の人生のよくわからんドグマとか何がマストなんてものを捨て去ることができれば、人生がもっと豊かになると思います。

その1でわりと全部書ききってしまった笑。
ここまで読んでくださった方はありがとうございました。

PS:ぼくは芸術と、そしてその消費は、“お供えもの”みたいなものだと考えているんです。それぞれのシーンや人々に即して、その信じる形式のために捧げられた行為。だから他の宗派の仏壇とか、祭壇にあるものが嫌らしくみえたり、自分のものと違うと感じることは多いにあると思います。歴史観だけがそれを乗り越えることができる指標と言えるかもしれません。

上記、説明させていただいた音楽史の俯瞰を簡易的に書くとこんなかんじ。

バッハ・音韻→ロマン派・音響→ジャズロック・音韻
→デジタルミュージック・音響 ←今ココ

以上です。


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