学校の本質
“世界は強者と弱者, 又は勝者と敗者に分けられない。学ぼうとする者と学ぼうとしない者に分かれるだけだ”
作家 Benjamin Barberの言葉である。
現在 ‘コロナ19’のために多くの人が制限された生活を送らざるを得ない状況にあります。
学校に行けない学生...
仕事の出来ない社会人...
休暇の取れない軍人... ㅠㅠ (僕のこと)
予期せぬ危機により、生活のあり方が大きく変わりました。以前は当たり前だったことが、突然当たり前でなくなったので、どんなに不便で、どれだけストレスだろうか...
しかし、このような状況こそが、まさに ‘学びの場’であることを忘れてはいけない。僕たちは危機の中にあっても、不便の中にあっても十分に学ぶことが出来る。学ぶ上で最も大切なのは僕たちを取り囲む環境ではなく ‘学ぼうとする心’だからである。
もしも、環境を口実に学びの機会を逃すなら、どれだけもったいないだろうか。学びのない人には成長はなく、成長のない人には変化がない。変化のない人生はどれだけ退屈だろうか... そのような面で、僕は挑戦して失敗するよりも過去の自分と今の自分が同じであることの方がはるかに恐ろしい。
学者...
何が思い浮びますか?
辞書では ‘学者'を ‘学問に優れた人。学問を研究する人’と説明しています。このように学者と言えば ‘教授’ ‘研究者’ ‘専門家’のように勉強漬けの人生を送って来た人を思い浮かべると思います。そのため、もしも “あなたは学者ですか?”と聞いたら多くの人が “違います”と答えるのではないでしょうか...
僕は漢字が好きです。なぜなら、漢字はその単語の内に潜んでいる本質的な意味を教えてくれるからです。漢字を見ると、学者は ‘学ぶ者’ つまり ‘学ぼうとする心’を持っている人を指す言葉であることが分かります。
もう一度聞きます。
“あなたは学者ですか?”
もう一つだけ。笑
学校...
何が思い浮びますか?
結論から述べると、学校は建物ではありません。 学校の本質は ‘学びのある所’です。
学校の校を二つに分けると ‘木’ + ‘交’。また、交は交差、交際などの単語からも分かるように ‘出会う’という意味が含まれています。つまり ‘校’という漢字は ‘木と木が出会う’という意味です。木と木が出会ったら何ができますか? ‘日陰’です。昔は、学校という特定の建物がなかったため、人々は木の下に集まって共にに学んでいたようです。だからこそ、学校という漢字をこのように表現したのだはないでしょうか?
これはあくまでも個人的な推測でした。しかし、今年の2月にインドの田舎にある学校に行き、学生たちが木の下で勉強している姿を実際に目にしました。その経験を通し、学校の本質は ‘学びのある所’という確信を持つことができました。
学校の本質は ‘学びのある所’ つまり ‘学者’がいる場所を意味します。もしも皆さんが ‘学者’ならば、皆さんが今いるその場所こそが、まさに ‘学校’です。
‘コロナ19’のために、学びの機会が以前よりも制限されていますが、環境を口実に ‘学び’を遠ざけることなく、今すぐ ‘学者’になりましょう! 今いる所を ‘学校’にしましょう!
“学ぶ心さえあれば万物すべてこれ我が師である”
-松下幸之助-
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?