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プロの情報 個人の情報

中学受験において、ある1つの家庭の取り組みや、ある1人の子どもの取り組みについての発信を、特殊な1つの事例と揶揄されることがある。

プロ家庭教師・塾・教育家などが持つ豊富な経験と知識に裏打ちされた情報と比較すると、再現性が低いのは否めないだろうし、「特殊な1つの事例」という指摘はあながち間違ってはいないと思う。

ただではそれが、「参考にする価値のないこと」とイコールかというと、必ずにもそうではないだろうというのが私の見解だ。

理由はたくさんあるけれど、理由の1つは発信する情報にずれがあるということ。なぜなら、個人の発信者(ここではプロ家庭教師はのぞいて中学受験生の親と限定)は、子どもと生活をともにしているからだ。

中学受験のプロ家庭教師・塾・教育家がどんなに深く家庭や子どもとかかわろうとも、24時間衣食住をともにすることは不可能だし、ましてや生まれてからずっとそばで見守るなんてできないだろう。将来中学受験することを見越して、生まれてときからずっと「先生、お願いします」と依頼されるなんてことは考えにくい。

中学受験生の親には、生まれてからずっと現在進行系で子どもと生活をともにしているという、プロ家庭教師・塾・教育家という第三者にはない絶対的な違いがある。

その違いが、個人の発信者の情報の価値の1つである、というのが私の見解だ。

自分にとって参考にできるのかどうかは、もちろん見極める必要がある。鵜呑みにはできないだろう。

だがそれは、誰が発信するどんな情報でも同じではないだろうか。だれにとっても効果がある有益な情報なんてものはほぼ存在しないのではないか。

まして、これだけ選択肢が多様になった今の時代、不特定多数にマッチするものよりも、自分の子供にあいそうな個別具体例を探しもとめる人も多いのではないだろうか。

なんてことを、情報発信して、情報収集する身としては思う。

結局のところ、いちばん大切なのは情報を取捨選択する目。「誰が発信しているか」だけにとらわれないように。常にオープンでいたいし、常に疑っていたい。

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