いつかきっと思い出す。/『月の砂漠をさばさばと』
子どものとき「お母さん」は「お母さん」という存在だと思っていたけど、ひとりの人間なんだよなあと今となっては(当たり前ながら)思います。
わたしが子どものとき、母が専業主婦でいつでもおうちにいてくれたし、いつでも話し相手になってくれていました。
ただし、それは夜の22時までのこと。
母は特別なことがない限り「22時になったら営業終了!」と宣言して、さっさと寝る準備をしてお布団に潜ります。それ以降のお願いごとはメモに書いてテーブルの上に置いておく。寝てしまうので話しかけることも許されません。
とはいえ、ずぼらなわたしが次の日の学校の準備をするのは自分が寝る直前。慌ててももう時すでに遅しで「なんで寝ちゃってるの!」とわがままに怒った記憶は何度もあります。
でも今となっては、「子ども」と「母親」としてではなく、ひとりの人間として区切りをつけて、すきなことをしてくれていた(母は寝ることがとてもとてもすきなのです)のは良かったなあと思います。
ちなみにメモがわかりにくいとお願いごとは叶えてくれないので、文章力も鍛えられていたような気もします。たぶん。
他のお母さんはどんな感じだったのだろう。友だちのおうちに遊びに行かせてもらうことはあったけど、きっとそこにいたのはよそゆきのお母さんだっただろうし、いま聞くのは友だちが母親になった話ばかりで、ちょっと求めているのとは違う気もします。
そんなことをふと昨日が母の日だったから、と、あるお母さんと9歳の女の子のお話を読んだからです。
北村薫さんの『月の砂漠をさばさばと』
シングルマザーのお母さんと、さきちゃんが毎日を積み重ねていくところを描いたこの物語。
学校があるのかないのかそわそわする時間を過ごす、台風の日を描いた「川の蛇口」や、さきちゃんが言葉の聞き間違えから話を膨らませる「聞きまちがい」などなど。読みながら、こんなことあったなーとほっこりする小さなお話が12話入っています。
さきちゃんはまだ9歳ですが、ちゃんと毎日のなかで学んだり、考えたりしているのがとてもかわいくて、読みながらすっかりお母さん目線で愛おしくなってきちゃいました。
たとえば、「聞きまちがい」の章でもこんな風に考えるのです。
《でも、聞きまちがいって面白い》と、さきちゃんは思いました。普通では考えられない世界をちらりとのぞくような、不思議な感じになります。めちゃくちゃに絵具を振りまいて、そこにできた、奇妙な模様を見るようです。
聞き間違いで起きることを絵具を振りまいて、と考えられるなんて。
ゆるやかに、やさしく、生活を紡いでいくふたりですが、ほっこりだけではありません。
名前について二人がお話する「ふわふわの綿菓子」では、さきちゃんの名前の由来が話題に上がります。その夜、さきちゃんはお父さんに綿菓子をあげようとしたときのことを夢を見ました。
お父さんが起きて来ても、昨日の、ふくらんだ綿菓子を見せてあげることはもうできないのです。さきちゃんは、何か、とても切ない気持ちになりました。
今も忘れられないくらいの強い思いです。
でも、それを口にしてはいけないような気がして、お母さんにはいいません。《さき》という名前について、お父さんが、どういっていたかも、聞きませんでした。
ほんのり、ほんのり切ないのです。なんだか、それもお母さんと咲ちゃんの結びつきの強さが感じられるようでとてもすきです。
これから、さきちゃんはどんなふうに成長していくのでしょうか。すっかりさきちゃんのことがだいすきになってしまいました。
おーなり由子さんのやわらかな挿絵がさらに物語を引き立てていて、癒されます。
わたし自身と母との関係性とはもちろん全然違うけれども、それでもなんとなく母との思い出に浸りたくなる一冊でした。
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