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いつでも「そもそも」が知りたい/『京都で考えた』

本をぱたりと閉じたあと、ストーリーを思い返してみたり、印象に残ったシーンについて考えてみたり、どうしてそれが印象に残ったのかを考えてみたりする時間がすきです。

まだ半分くらい本の世界に浸っているからか、夢うつつのような気持ち良さがあるのかな。あえてぼーっとしながら、過ごすことがすきで。

毎日のなかで、すぐいろいろなことが気になってしまうし、すぐに調べられてしまうこと。とても便利だけど、他のことがあまり気にならなくなる「ぼーっとする時間」もわたしにとってとてもとても大切。

自分と自分で会話することがとてもすき、というか。ちっちゃなかけらをうんと膨らませて、あっちこっちに想像を広げる遊びがすごく面白いんです。

だから毎日の暮らしのなかでもなるべくぼーっとするようにしているのだけど、やっぱりスマホに慣れきってしまったせいか全く何にもない状態でぼーっとし続けるのはちょっと難しくなってきてしまって。

料理をしながらとか、お風呂に入りながらとか、あとは日記を書きながら、頭の中をぐんぐん広げる遊びをしています。

わたしにとって読書はそのために種さがしでもあるかもしれません。思いつかないような世界とか、人とか、物語に出合うと、何かが急速にうるおう感じがするのです。

たっぷり浸って、それをまた自分のなかで広げていく感じ、たまんないです。

当たり前かもしれませんが、「浸る」と「広げる」は同じときにはできません。本を読んでいるときはただたただ浸るのみです。それはこれまで読んだ、どの本でもそうだったのですが最近どっちも一緒にできる本に出合ってしまいました。

吉田篤弘さんの『京都で考えた』。

タイトル通り、著者が京都滞在中に考えているつらつらとしたことが、ただつらつらと書いてある本。

なのですが、読みながらなんだかわたしも一緒に鴨川あたりを歩いたり、喫茶店で珈琲を飲んだりしながらぜんぜん別のことを考えていたような気分になれるのです。

もちろん、本は読みながら、です。

それはつらつらとしたものであるからという理由で章題や見出しが本文中に存在しないことも理由かもしれないし、書かれている内容がさまざまなことに対して「本当にそうか」と自問自答し続けていることも関係しているのかもしれません。

もし、本当にそうなら、この世のあらゆることについて、省略される前がどうであったかを知りたい。それがつまる「本当のこと」で、ようするにぼくは、いつでも「そもそも」を探してきた。

わたしはベッドに寝転んでいたはずなのに、気がついたらゆらりとした川のほとりに立っていて、「それで、」と話し続ける著者に相槌を打ちながらわたし自身も「本当にそう?」と考え出しているような。

考えごとをしたいときに手に取りたい一冊。


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