見出し画像

ごはんもののおはなしに無性に惹かれてしまうわけ

わたしはご飯のことが書かれているおはなしがすきだ。

最近読んだ本でいちばんのヒットは「東京すみっこ物語」(作:成田名璃子)という”料理を作ること”が主役の小説だし、ネットを徘徊していても広告でグルメ漫画の試し読み!なんて出ていたら迷わずクリックしてしまうし、エッセイだってご飯やお菓子の話だって探して最初に読みだすくらいだ。

だけど、だからと言ってわたしが普段むちゃくちゃに料理をするかというとそういうわけではない。

ごはんを作ることも嫌いではないが、ごはんに関するものを読んでいる時間と比較すると「なぜ?」というくらいにはしていないと思う。おいしいものを食べることもだいすきだけど、外食して日々新しい味を知りたい!というほど食べ歩きをするわけではない。

ならばなぜ?

自分でもそう思う。

なぜ、こんなにもごはんについて書かれたものに興味があるのだろう。ここ最近、ぼんやりと考えていた問いの答えが西加奈子さんの「ごはんぐるり」という本に書かれていたような気がする。

そのタイトルどおり「ごはん」について西さんが思うあれこれが書かれたエッセイ本なのだけど、そのなかの「活字のごはん」という話のなかで”物語を読んでいるときに出てくる未知なる食べ物がすきだ。それがたとえ現実で食べたことのある料理だとしても、頭の中で描いていたそれと目の前にあるこれは全然違うもののように思う”と書かれていた。

これだ、と思った。

物語に出てくるごはんはいつもきらきらしているのだ。自分のなかであれもこれもたっぷりと装飾ができて、とびきり美味しく感じるのも、そうじゃないのも全部わたしの自由だ。知らない料理はもちろんのこと、日本で食べられるような料理であっても、物語の下地があって、それを食べる登場人物の状況があって。いろいろな条件が重なって初めて出てきて、それをどこまでも想像できて…それが魅力的じゃないわけがなかったのだと気が付いた。

たとえば、羽海野チカさんの「3月のライオン」というまんががある。このお話には主人公の桐山零くんと交流を深めていく川本家という家族がいるのだが、その川本家の食卓に並べられるごはんがどれも魅力的だと毎回話題になる。確かにどれもとてもおいしそうだし、参考にして作ってみたことも何度かある。だけど、わたしにはそれと同じくらい桐山零くんが一人帰ったマンションでひっそりと食べる具なしのインスタントラーメンにも同じくらい魅力的に見えるのだ。

それは桐山零くんがたったひとりきりのマンションで、たったひとりでご飯をつくり、そしてそれを食べることの理由を知っているからだ。

ごはんを作り、食べること。

誰もがしなくてはいけないことだし、だからこそとても身近なものなのだけれど、物語上ではいかようにも省くことのできるその部分にフォーカスを当てること。それによってどこまでも想像を広げるということが、たぶんわたしはだいすきなんだろうなあと思う。

食べること、ではなくてあくまでも想像することがすきみたい。

だけど、物語に出てくるたくさんの料理を実際に食べながら、読んだら、もしかしたらまた新しい楽しみも見つけられちゃうのかもしれないな。

なんて思いながら、今日もせっせとごはんに関する知識だけをため込んでいく。

もっともっと新しい世界を知るために本を買いたいなあと思ってます。