チェコ・プラハで思う我が祖国
2006年当時、チェコに足を運ぶまでは東欧といえばどこか寂し気で暗いイメージを抱いていた。
それは実に勝手な妄想だったが、実際この国が辿ってきた歴史をみれば少なくともそう思わざるを得なかった。
ナチス・ドイツによって一度はチェコ・スロバキアという国名が消え、ソ連による軍事介入によって、自由化を求める民衆の声が弾圧された歴史的な事実がある。
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アイルランドからイギリス、北欧からドイツを経てこのチェコにやってきたのだが、この国に来てとうとう英語が通じない事態も起きた。
駅舎近くの案内所にいた不愛想なおばちゃんでさえ、英語を話せなかった。
英語で聞く。チェコ語で返ってくる。また英語で聞く。またチェコ語が返ってくる。
いよいよ、おばちゃんも嫌気がさしたらしい。(そもそも、チェコ語を話さない僕にも非はあるのだが...)
中から窓ガラスをドンドン叩きながら、これを見な!という。その張り紙にはこう書かれていた。
「We can't speak English,Only Czech.」
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モルダウ川に架かるカレル橋のたもとで、清潔感あふれる制服を着た少年合唱団に遭遇した。
彼らは整列すると、突然そこで歌を披露してくれた。
プラハ城の方へ橋を渡ろうとしていた観光客たちが、一斉に足を止める。
僕も少し離れた所で、その絵になる風景と彼らの美しい歌声を聴いていた。
彼らの生合唱が終わると、聴衆から拍手が沸き上がった。
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中学時代、合唱祭で歌った「モルダウ 交響詩 我が祖国」を思い出す。
あれは中学3年、最後の合唱祭だ。
課題曲はもう忘れてしまったが、自由曲がこの「モルダウ」だったのだ。
当時の音楽の先生が、自由曲の中でも一番難しいわよと言っていたのを覚えている。それを僕たちは自ら選んだ。
久しぶりにこの「モルダウ」を聴いたら、よくこんな難しい曲を歌ったものだと感心してしまった。
クラスメイトの仲の良さは学年中の評判で、放課後もみんなで残って教室で練習を重ねた。チームワークだけはずば抜けて良かった。
本番は足が震えるほど緊張したのを覚えているが、僕たちはモルダウを歌い切った。そして、僕たちは金賞を見事勝ち取ったのだ。
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プラハの旧市街広場を歩いていた時、着物姿の舞妓さんたちが観光客から注目を浴びていた。
(えっ、なぜここに?)
僕は、無計画に街をぶらつくバックパッカーだったので、当然ながら不思議に思う。
後々、プラハが日本の京都と姉妹都市であることを初めて知った。
舞妓さんに遭遇しなければ、二度とそれに気が付かなかっただろう。
美しき川モルダウが流れるプラハの街。
僕にとって、我が祖国との距離がぐっと近づいた瞬間だった。
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