ユニホームを真っ黒にした夏の日
ちょうど午前の練習が終わった時、山あいに広がるグランドには真夏の日差しが照りつけていた。
ベンチには選手たちのバット、ヘルメット、グローブが綺麗に並んでいる。
行動は迅速に行う。物事行動にけじめをつける。整理整頓を徹底する。
監督が定めたチームのモットーである。
昼食のカレーはあまり喉を通らなかった。暑さと疲労のせいもあるが、何だか全身が緊張していた。
昼食後、日陰に腰を下ろして休憩した。もうじき午後の練習が始まる。
この日は合宿の5日目。明日は最終日だ。
(今日と明日を乗り切れば...あぁ早く家に帰りたい)
*
1992年8月。
人生で初めて一週間ほど家を離れた。夜行バスに乗り、群馬県万座温泉まで遥々やってきた。温泉とは響きがいいが、やって来た目的は野球の夏合宿である。
この日の午後、僕が最も恐れていた夏合宿恒例の”特訓道場”が待っていた。
恒例とはいえ、僕はまだ経験したことがない。なぜなら、このチームに入ってまだ4ヶ月ほど、初めての合宿だったからだ。
朝、小学校低学年から中学生までの総勢80名近い選手たちが横一列に並び、総監督の話を聞いていた。
「今日は恒例の特訓道場がある。一人一人、集大成と思って臨んでくれ」
この時、僕は列の一番端っこに立っていた。
当時、小学校2年生。チーム最年少。同学年の仲間は一人もいなかった。
*
「ニコタロー!泣くんじゃないぞ!行ってこい!」
午後の練習が始まってまもなく、チーフコーチが僕に声を掛けた。
合宿に限らず、普段の練習から僕はよく泣いていた。ゴロやフライが捕れず、エラーが何度も続くと地面にうずくまってよく泣いた。一学年上の先輩たちは捕れるのに、なぜ僕だけできないのか。悔しかった。その度に先輩たちは励ましてくれた。
僕は、特訓道場が行われているサブグランドへゆっくりと歩き始める。
メイングランドから少し離れた山林の中に、サブグランドはひっそりとあった。やがて、不安を掻き立てられるような大きな声が聞えてきた。
「飛べよおらぁ~!!」
「声が小さいっ!」
「腰が高いんだよ、腰がぁ~!!」
しごかれている先輩たちの姿がありありと目に浮かんできた。これから自分も同じ目に遭うのか。
サブグランドにはネットが張られ、5ヶ所ほどに区切られた”特訓道場”のスペースが用意されていた。
そこでは1対1になって、痛烈な打球に飛びつく先輩たちの姿があった。真っ黒になったユニホーム姿の先輩が声を張り上げて奮闘している。
「来いっ!」
「カキーン!」
ノースリーブの筋肉ムキムキの選手OBたちが、激しくバットを振って声を張り上げている。
終わった。もう逃げられないのだ。
*
僕はいったい誰にしごかれるのだろう。
そしてついに声を掛けられた。
「君!これからでしょう?やろうか!」
「あっ、はい!」
すらっと背の高いOBだった。どちかといえば、筋肉ムキムキの雰囲気はなく、上下もしっかり白の練習用ユニホームを着ていた。胸には「西本」とマジックで名前が大きく書かれている。OBは何を着ようが自由だ。
「あれ?ニコタロー君じゃない!俺、覚えてる?」
「えっ…」
「ほら、ニコタロー君のお兄ちゃんの友達だよ、西本だよ!」
「えっ!? あぁ~!覚えてます!前に家に遊びに来てましたね?」
「そうそう!こんな所で会えるなんて驚いたなぁ!」
声を掛けてくれたのは、たまたま兄の友人で中学時代の同級生だったのだ。兄は中学校の野球部に入っていたが、西本君は僕と同じ少年野球チームのOBだった。
僕の破裂しそうだった緊張と不安が、急に和らいだ瞬間だった。
とはいえ、これから特訓道場が始まることには変わりない。
「よし、じゃあ始めようか!元気出していこう!」
「はいっ!!」
僕の特訓道場が始まった。一球ずつ、僕は全力で声を出した。
「来いっ!!」
手加減はなかったが、西本君の表情は常に優しく穏やかだった。それだけで僕は何だか救われた気がした。
やがて、打球が左右に飛び始める。そして、僕はいよいよ飛んだ。
だが、ボールは捕れない。今度は逆方向に飛んだ。また捕れない。また逆方向に飛んだ。
捕れた!
「ナイスキャッチ!いいね~!その調子!」
掛け声が優しかった。隣の区画にいる筋肉ムキムキのOBとは全然違う。
だが、僕のスタミナはどんどん消耗していく。
「はぁはぁはぁはぁ」
「よしニコタロー君、あと10球ビシッと終わらせようか!」
「はいっ!」
「行くぞ!」
「来いっ!!」
もう脚が思うように動かなくなっていた。息もすっかり上がっていた。
(あと5球)
(あと3球)
(ラストだ!)
「オッケー!ナイスファイトだったね!」
僕はやり切った。初めての特訓道場をやり遂げたのだ。
「ありがとうございました!」
特訓道場が終わると、サブグランドにアイスクリームの差し入れが届いた。
コーチ、選手OB、そして真っ黒に汚れた選手たちが日陰に腰を下ろし、アイスを食べながら他愛もない会話で盛り上がっている。
筋肉ムキムキのOBも選手たちと楽しそうにじゃれ合っている。
さっきまでの時間が嘘のように、みんなが笑っていた。
***
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