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アテネの夜の甘い誘惑
「ねぇ、お酒を頼んでくれない?あなたと一緒に飲みたいわ」
色白の金髪スレンダー美人が、僕の隣に座るとすぐにこう言ってきた。体の距離が近い。
(えっ、そういう感じ?)
間違いなく年上だろう。だがそこまで歳は離れてない気がする。胸の開いたピンクのドレスを着たその美女から目を反らし、僕はテーブルにあったメニューを手にとった。
目が点になった。
(なんだこれ、高すぎる...)
一番安い値段のコーラでさえ7€もする。街のスーパーなら1€で買えるのだ。
それ以外のドリンクはだいたい30€から50€、3ケタの酒もたくさんある。
(これじゃ、まるでぼったくりバーだ)
この時、日本でいう”キャバクラ”のような存在を知らなかった。行ったこともなかった。身分は休学中とはいえ、”大学生”である。
頭が真っ白になった。
ひとまず僕は気を紛らすため、至って普通の質問をスレンダー金髪美女に投げかけた。
「お姉さんはどこの人?地元の人?」
「私はロシア生まれよ」
「ロシア!何となく外見が南欧の人には見えなかったから」
ギリシャでロシア人に出会えるとは思っていなかったから、それには本心で驚いた。
たが僕はそわそわして落ち着かない。
「あなた日本人なのね。私、日本人は好きよ。学校で日本語も勉強したこともあるの」
「本当に?へぇ~、ロシアでも日本語を」
「本当よ!だって、私たちの国って近いじゃない!日本に興味を持っている人は多いのよ」
確かに、近いといえば近い。このギリシャと日本との距離を思えば、日本海を隔てた場所にロシアはある。ただ、この時の僕にはロシアはあまりに広すぎてそんなイメージを持てなかった。
「ねぇ、そろそろお酒を頼んでくれないかしら?」
僕は再び現実に戻された。この店から一刻も早く出たい。だが、店の奥まで入って何も頼まないわけにもいかない。
「とりあえず、コーラを一つ」
*
そもそも、僕は好きでこの店に入ったわけではない。いや、確かに何も考えずに店に入ってしまったのも良くなかった。
夜、薄暗い裏通りのような道を僕は一人で歩いていた。
煌々と輝くパルテノン神殿の全景を、アクロポリスの丘から一つ谷を隔てた小高い丘に登って眺望していたのだ。
僕はその全景を独り占めするかのように、岩の上に一人で座ってずっと眺めていた。
まさにそれは息をのむような、どこか幻想的で壮観な景色だった。
それから丘を下り、頭がまだぼんやりとしている時に背後から突然声を掛けられた。
「やぁ!青年!お前さんは一人か?どこから来たんだ?」
僕が日本だと答えると、そりゃいい!と興奮してさらに絡んできた。別に悪そうな人には見えなかった。陽気なおっちゃんという感じだ。
イタリアから一人で観光に来てるのだという。僕はこうして旅で声を掛けられた時、あからさまに追っ払ったり逃げたりはしなかった。
パリのサクレクール寺院の公園で、黒人にいきなり腕を掴まれて犬のように逃げた時以外は、とにかくまず最初は会話をした。
それがきっかけで仲良くなったり、一緒に観光巡りをしたりすることが起こることを経験で知っていたからだ。だから、こうした時に僕はどちらかといえば快く聞き入れることが多かった。
だが、一人旅は自分で自分の身を守らなければならない。全て自己責任だ。幸運も不幸も、全て自分の判断と行動次第だ。
確かにそうなのだが、人間誰しも常に”鎧”を着ていることはできない。着ていたいとも思わない。
やがて、歩道を歩きながらイタリアの中年男がこれから一緒に飲もうと誘ってきた。この時、僕は完全に鎧を脱いでいたのだ。
街灯だけがやけに明るく感じる薄暗い通りには、バーやレストランのような店は並んでいた。だが、どこも小さな店ばかりだ。シャッターが閉まっている所も多かった。そんな通りの中で、ふとイタリアの中年男が言った。
「この店に入ろう!」
イタリアの中年男が入ろうとした店は、なんの変哲もない薄汚れた白い建物で、外の窓からちょうどバーカウンターが見えた。ごく普通の夜のバーだ。
僕は断らず、あっさりとその店の中に入ってしまった。
僕とイタリア人の中年男は、店に入るとすぐ手前のカウンター席に座った。背の高いバーテンダーの男が一人、髪の黒いラテン系の女が一人いる。
メニューを見る間もなく、そのラテン系の女が奥のテーブル席が空いているからそっちにどうぞ、と言って僕たちを誘導した。
それに何のためらいもなく、僕たちは流れのまま奥のソファに座った。するとまもなく、奥から金髪スレンダー美女が現れたのだ。
*
「あなたって近くで見ると目が素敵。可愛い顔してるわね」
「ねぇ、ここで私にキスしてもいいのよ。ほら、キスして」
キラキラと潤ったピンク色の唇、そこに人差し指をトントンと当てながらついに僕を誘惑してきた。
そして、そのとんがった唇を見た時に僕は躊躇してしまった。
心の中では早く店から出ようと決めていたはずなのに、このスレンダー金髪美女の誘惑によって一瞬だけ躊躇したのだ。
本来、男という生き物に備わる感情と欲望。男はなんと弱い生き物だろう。キスして、と美女にすぐそばで囁かれて心が揺らがない男がこの世にいるのだろうか。
僕は目の前で起きている現実から目をそらし、ふとその存在を忘れかけていたイタリアの中年男の様子を伺った。
さっきソファに誘導したラテン系の女と楽しそうにいちゃいちゃしている。ノースリーブの露出した女の両腕を時々触ったり、頭や耳元を撫でたりしている。会話を楽しんでいるという風には見えない。すっかりデレデレになり、いい気分で酔っぱらっていたのだ。
そんな”スケベおやじ”を目にした時、僕は冷静に自分の声を聞いた。
(お前は、こういう”娯楽”をするために旅に出たのか?)
(キスをしたければ、キスをすればいい。許しも得ているのだ)
道は二つしかない。
隣の”スケベおやじ”のようにここではしゃぎ遊ぶか、さっさと帰るかだ。
僕は頼んだコーラを全部飲み切ると、席を立った。
「悪いけど、俺は先に帰るよ」
僕は隣にいた”スケベおやじ”に声を掛けた。
「なんだ、もう帰っちゃうのか?」
そんな表情を一瞬みせたが、まさにそれは一瞬だけだった。僕のことなど、どこ吹く風でまた女に夢中になった。
(もういいや)
僕は、高額なコーラ代だけカウンターで払うと店の外に出た。
入り口の手前まで送ってくれたスレンダー金髪美女は、どこか素っ気ない表情をしていた。
店の外は静かだった。
聞こえてくるのは、スケベおやじの楽しそうな笑い声だけだった。いつまでこの店にいるつもりなのだろう。あの調子だと相当な金を持っていかれるだろう。
(スケベおやじよ、ほどほどにな!)
心の中でそう叫んだ後、僕は夜の道を再び歩き始めた。
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