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HANDBIKER GO TO BERLIN〜42歳でムボーにもベルリンマラソンに挑んだ特攻ハンドバイク野郎のハナシ〜(1)

 SIDE A:第37回大会(2010)

『旅立ちの朝、胸に抱いたこと』

 2010年9月23日、水曜日、午前0時。僕はといえば、まだ人気のない仕事場にいた。

 ベルリンへ発つべく成田に向かうため、午前2時には静岡県熱海市のアパートを出発したかった。しかし、段取り下手な僕は仕事をうまく片付けられず、気が逸るばかりで、結局そんな時間になっても「発つ鳥あとを濁さず」といえる状態になかった。

 ようやく最低限の片付けをし、申し送りを書き置きして、僕は事務所を出ようとした。ところが施錠がうまく出来ず、あたふたしているうちに警備システムの警報が鳴ってしまった。慌てて警備会社に電話をして、しばらく対処を待つはめになった。その間にも、刻一刻と出発時刻のリミットは迫っていた。

 結局、警備員が到着し、鍵を修繕し、施錠し、報告書を提出してアパートに戻ったのが午前一時になってしまった。

「後厄の年にトライするベルリンマラソンには、やはりのっけからトラブルがついて回るのだなぁ」と自嘲せずにはいられなかった。

 午前三時にひと山越えた裾野市の実家に辿り着き、親父を乗せて成田空港に向かった。レースを間に挟む6日間の渡独だったが、空港に駐車しっぱなしも料金がかさむので、僕が日本を発った後は親父が車を持って帰ってくれるのだと、彼の方から申し出てくれた。

 早朝の高速道路は快適で、成田に着いたのは午前5時30分だった。早朝の空気はすでに秋の気配で、半袖でいた親父はひどく寒そうにしていた。ハンドバイクやその他の荷物を降ろして、親父は車を駐車場に納めに行った。

 ドイツのフランクフルト経由でベルリンに向かう飛行機は、午前9時35分に発つ。それまで僕と親父は待合エリアで道中に購入してきたいなり寿司を頬張りながら、時間をつぶした。

 すると、眠気にうとうとし始めた午前7時ごろ、突然僕のスマートフォンが鳴った。てっきり目覚まし代わりのアラームだと思って電話を取り出したら、その画面には幼なじみのしんちゃんの番号が表示されていた。

「今日だよね?ベルリンに行くの」
「うん、もう空港にいるよ。どうした?」
「今、そっちに向かってんだ」
「そっちって?」
「成田さ」

 幼稚園から中学までずっと同じ学び舎で過ごしたしんちゃん。僕を陸上の道に導いてくれたしんちゃん。そのしんちゃんが僕を見送りにわざわざ仕事を休み、早朝に静岡県富士市から駆けつけてくれていた。

「たぶん、搭乗のギリギリになっちゃうかもしれないよ」
「うん、待ってる」

 しんちゃんがこちらに向かっていることを親父に告げると、「そっか」とそっけなく言ったものの、その表情はとてもうれしそうだった。親父も我が家に遊びにくるしんちゃんをもう一人の息子のように可愛がっていたからだ。

 小学生の頃、肥満児だった僕は、ダイエットのつもりでサッカーを始めた。少年サッカーのチームに入り、卒業までの二年間でかなり痩せた。そして、中学に上がると学校にサッカー部がなかったため、バスケット部に入った。しんちゃんはそのバスケット部のチームメイトでもあった。

 僕の通った中学校にサッカー部がなかったのは、野球部とソフトボール部に校庭を占拠されていたからだ。同様の理由で、陸上部もなかった。だから、市の陸上大会では、各部の選抜選手が一時的に陸上に転向して、競技に臨んでいた。その中で、しんちゃんは長距離ランナーの筆頭で、1,500メートル走の校内記録を中年になった今でも保持していた。僕も体重が落ちて、そこそこ走れる身体になったので、中・長距離の選手として選抜された。 どうやら元陸上選手だった親父の血を受け継いでいるようだった。

 中学校のしんちゃんと僕は、日々熱心に走り込んだ。当然、僕の実力は市内では向かうところ敵のなかったしんちゃんの足元にも及ばなかったが、一緒に走ることで、ペース配分や正しいフォームやランニングに適したシューズの知識などを直々に教えてもらうことができた。

 中学3年生のスポーツテストの時のこと。懸垂やソフトボール投げなどを終えて、最後に行う種目が1,500メートル走だった。狭いグラウンドで全員の生徒が走ることができなかったため、計測は二つのグループに分かれて行った。

 しんちゃんは先に走るグループで、当然のごとく目を見張るような記録とともにトップでゴールした。次は僕が走る番だった。

 僕は自分なりに持てる力を出して走った。すると、いつの間にかグループの先頭を走っていた。その時、初めて追われるものの強迫観念を体感した。後ろを振り向きながら走ることはタイムロスにもつながるのでご法度だとしんちゃんに教えられていた。だから、背中に感じるプレッシャーと戦いながら、僕はがむしゃらに走った。

 200メートルトラックを6周したころになると、心肺機能も限界に近づき、全身の筋肉も悲鳴を上げ始めた。すると、僕の心の中に、自分の弱い一面があらわれ、僕自身を誘惑したのだった。

「別に、勝敗を決めるレースじゃないんだからさ。手を抜いたっていいんだぜ」

 一番でゴールしたからといって、素晴らしい商品がもらえるわけでもない。いいタイムを出したからといって、生涯に残るような栄誉が与えられるわけでもない。だったら、ちょっとくらい手を抜いてもいいんじゃないかと、もう一人の僕は僕の脆い心をぐらぐらと揺らした。

 その時、僕の眼前に飛び込んでくる影があった。やや虚ろになった目でその影を見上げると、それがしんちゃんだということがわかった。

「ジュン!ついてこい!」

 ラスト一周になって、明らかに失速した僕を見かねたのだろう。自分だって全力で1,500メートルを走り終えたばかりだというのに、しんちゃんは僕をリードしてくれた。

「ここから!ここから!」

 ここからもうひと頑張りしろと、僕を振り返りながら、しんちゃんは苦悶の表情の僕に向かってエールを送ってくれた。それに合わせるように、僕も弱い声で「ここから、ここから・・・」と呟いていた。

 最後の一周はそれまで走ったどの経験よりも辛かった。でも、何とかしんちゃんの背中を追ってゴールしてみれば、自己最高記録をマークしていた。恐らくレース経験の豊かだったしんちゃんが僕の走りを見ていて、そのペースでいけば僕のベスト記録が出ることを見こんでいたのだと思う。そこで失速してしまった僕を見かねて、僕を先導してくれたんじゃないかと察する。

 あれから27年。僕はまた自分の限界に挑戦しようとしていた。そして、それを知ったしんちゃんが、僕の旅立ちを見送るために200キロ以上離れた場所から成田空港に駆けつけてくれていた。

 間もなく搭乗の時刻となった。その時、出発ターミナルの入り口から駆けてくる影があった。しんちゃんだった。

「道、間違えちゃってさ」
「遠いところを、ありがとう」

 待合いのベンチで居眠りをしていた親父を起こし、僕たちは出国ゲートに向かった。

 係員が僕のパスポートを持って出国手続きをいている間、僕はしんちゃんと親父にあいさつをした。

「いってくるよ」
「ひとまずは、完走だな」

 僕よりも背の高いしんちゃんを見上げながら僕がそう言ったところで、搭乗案内の係員に声をかけられた。見送りの者とはここで最後の別れとなる。僕はしんちゃんに手を差し出した。それに応えて、しんちゃんも手を差し出し、僕たちは固い握手を交わした。

「ま、いい歳なんだから、無理せず、楽しんでこいよ」
「わかった」

 そう言って、僕たちは別れた。

 多分、しんちゃんは僕に託したのだと思う。 出国ゲートから搭乗口へ向かう間、僕は大きな窓の外に並ぶ旅客機を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 ベルリンマラソンを走ることだけじゃなく、駆け足の速い子どもともてはやされ、進学校に進みながらも、自分が望まない空回りの道を歩んできてしまった自分にできなかったことを僕に代行してほしいと、しんちゃんは僕に託したんだと思う。

 幼なじみとして、またともに切磋琢磨した陸上選手として。

 ほどなくルフトハンザLH711便は空へ飛び立った。眼下のどこかで親父とともにしんちゃんが僕の乗った機体に向かって手を振っていることを、僕は想った。

 単に40歳を超えてフルマラソンに挑む意外に、また一つ、走る目的ができた。それは、目的になったと同時に、単身で異国に向かう僕の支えともなった。

 HANDBIKER GO TO BERLIN〜42歳でムボーにもベルリンマラソンに挑んだ特攻ハンドバイク野郎のハナシ〜(2)へつづく・・・。

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